ロアーヌ侯爵、ミカエル。
3ヶ月前、父フランツが暗殺され、齢27にして一国の主となった男だ。
行政・軍事の手腕には非常に優れていると評判で、すでに国民からの支持を得ている。
そんな領主への謁見の機会。一介の農民には一生無縁なものと云っても過言ではなかった。
シノンの4人はモニカの後ろで、緊張の面持ちでいた。
ハリードも並んでいるが涼しい顔である。
「俺たち、ここにいていいの?」
「分からないけど、一緒に通されたんだからいいんじゃないの?」
「2人とも、静かに…」
「モニカよ、一体どうしたのだ。こんなところまでやって来るとは」
騒がしい来客に構わず、侯爵殿下が口を開いた。
「お兄様、ゴドウィン男爵と大臣が反乱を企てております!玉座の間にてそのように話すのを、この耳で聞きました」
「!」
「えっ…」
ハリードが語ってみせた、不安定なロアーヌ情勢、それに乗じた反乱の起こる可能性。
正直なところ半信半疑であった領地の農民は、声にならない声で驚いた。
「それをお前がわざわざ知らせに来てくれたのか」
それに反し、ミカエル侯爵は落ち着き払ったものだ。
「私が囚われ、お兄様に不利となることがあってはならぬと思い、こちらへ…」
「なるほどな。後ろの者たちは?」
「私をシノンの村からここまで護衛してくださったのです」
「我が妹を助けてくれた事に感謝するぞ。今は遠征中であるから大した礼は出来ぬ。ロアーヌへ戻ってから十分な恩賞を取らせよう」
領主から笑顔と感謝の言葉を賜り、背筋が伸びる4人の農民。
横目で眺めるハリードが笑いを噛み殺した。
「夜が明ければすぐにロアーヌへ向けて出発せねばならん。ゴドウィンとは一戦交えることになろう。
そうだな…お前たち、もう一仕事してもらえぬか?モニカを北のポドールイまで送り届けてくれ」
「ポドールイ…、あのヴァンパイア伯爵のところへですか!」
思わず言葉を返したユリアンを、エレンが肘で小突く。
「武具もいくらか持たせよう。明日の出発だ。今晩はテントを準備する。下がって良いぞ」
ミカエルはずっと沈着な振る舞いで、側についていた従者にテントと武具の手配を云い渡した。
そのミカエルがふと、ハリードが腰に提げた曲刀を目に留めた。
「待て!お前、トルネードではないか?」
砂漠地帯の人間特有の褐色の肌、曲刀。
キーワードが揃えばミカエルはすぐに名指しした。
「俺をそう呼ぶ奴もいるな」
「これはいいところに現れた。トルネードよ、お前は私とロアーヌへ来てくれ。モニカの護衛はその4人でいい」
「出すものを出していただければ、俺は構わんぜ」
殿下と気軽に言葉を交わしたハリード。4人の農民がものすごい顔でこちらを見ていることに気づき、笑いを噛み殺した。
あれよあれよという間に、事件は次の展開を見せる。
5人には2つのテントが用意された。男女の別を考慮する心遣いにも背筋の伸びる思いである。
とはいえ、宿営地のテントでリラックスして過ごすことは難しく、エレンは考え事を始めていた。
ハリードに云っておきたいこと。明日別れてもどうせロアーヌでまた顔を合わせるのだろうが、早目に伝えておかねば、という内容の。
「サラ、あたしちょっと隣に顔を出してくるから」
「うん…、早く戻ってきてね」
「分かってるわ」
不安がる妹を残し、ユリアンとトーマス、ハリードのいるテントへ。
…と思ったら彼は、テントの外で突っ立っていた。気配でエレンを振り返る。
見張りはロアーヌ兵の領分だから彼もじきに眠りに就くはずだが、曲刀だけを腰に提げたままである。
「…ハリード、ちょっと時間をもらえる?」
曲刀に続いてエレンが目に留めた左脚。軍の救護部隊に道具を借りて処置をしたが衣服の替えはなく、乾いた血の色のまま。
「初めて名前で呼んでくれたな、エレン」
あのミカエルが重宝がるほどの人物らしいが、そんなことを感じさせない調子で、エレンを振り返った。
「昨日、パブで、あんなふうに突っかかっちゃって、ごめんなさい。
それから…ここに来る途中、助けてくれて、ありがとう。怪我までさせて、足を引っ張ったわ」
エレンは借りを作るのが嫌いで、必要な時こうして謝罪や感謝を述べることを欠かさない。
「なんだ、気にしてたのか」
「あたしは正々堂々としてなくちゃいけないの」
「立派な心掛けだ」
夕方以降、天候は回復に向かっている。おかげで湿度が下がり、夜になれば空気はすっかり冷えきった。
エレンが体を小さくするのを見ると、ハリードは自分たちのテントに顔だけ突っ込み、毛布を1枚持ってくる。
これをエレンの肩にかけてやりながら、語り始めた。
「確かに、勇敢と無謀は別物だ」
空を見上げ、一歩前へ踏み出た。
「しかしそれを事前に判断するのは難しい。別物だが、どちらにも転ぶ表裏一体のものだ。
上手く行けば勇敢だったと褒め称えられて、失態をおかしてしまえば無謀だったと責められる。
俺も若いころ、何度か、仲間を死なせた」
「………」
「ただし、振り返ってみればそんな時は冷静さを欠いている。それでどこかに落ち度があるものなんだ」
エレンはプライドに背中を突かれ、選択肢から『回避』『退却』を抹消した。
それで得たのは『勇敢に立ち向かった』でなく『無謀な迎撃に打って出てしまった』という結果だ。
「エレン、お前なら呼吸法を習得しているだろう」
「ええ。4つあるわね」
「呼吸を1つ増やすんだ。動く前にな。単なる深呼吸でも構わんが、俺の経験上“密息”が適している」
腰を落とし、腹や肩を動かさずに横隔膜で瞬時に吸気を得る。それを鼻からゆっくりと吐き出す。正に精神集中に良いとされている。
また人間は、息を吐き切った後、吸う直前の一瞬が弱い。“密息”ならばこれを相手に悟られにくい利点も。
間違いなく、これが最適なようだ。
「戦の間、恐怖や傷の痛みを和らげるため、脳が興奮状態を作る。ひと呼吸で多少はマシになるぜ。無いよりマシな程度だけどな」
先ほど、一歩前へ踏み出たハリードの立つ位置が、自分から見て風上にあたることに気づいたエレンだが、敢えて礼は云わなかった。
「モニカ様のために、明日からさっそく実践してみるわ」
「もうちょっとややこしいお嬢さんかと思っていたが、素直でよろしい」
「ひとこと多いのよ!」
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