ピドナ南番地の宿で三たびの朝。窓の外の騒がしさに街を見下ろした。
通りに溢れる人々は、モンスターに襲撃を受けてからの数日間とはうって変わって、笑顔だ。
部屋を飛び出すエレンに、ハリードも続く。街中へ出て人混みを見回しながら、トーマスの親戚の館へ。
その道すがら、シャール様がお戻りになった…、という会話が耳に入った。

館を目指し、気持ちと共に早足から駆け足へと。
玄関の叩き金を数回打つが、返事を待たずに扉を開いた。






エレンが数年ぶりに見た、故郷の仲間の姿。
「トーマス!!!」
「……!」
衣服も鎧もぼろぼろで、血の汚れにまみれて。
視力が悪い彼のトレードマークであった眼鏡も、失ったのだろうか。身に着けていない。
「エレン…、どうして、」
ふらふらと歩み寄ってきて、エレンの体を強引に抱き竦めた。
再会の挨拶にしてもトーマスはこんなに不躾ではないはずで、エレンの表情は硬い。
「………」
「まさか…、ここに君が現れるなんて…」
エレンが開きっ放しにした扉を閉め、ハリードは息を殺した。
槍を携えているこの男がシャールだろう。傍らには、この地方では見ない出で立ちの少年。
「たまたま4日前にピドナへ来たんだ。今回の騒動については知っている」
「…ハリード」
エレンの衣服と頬には赤黒い汚れが移った。
そんなことにすら構えないトーマスが微笑む、それは見るからにぎこちない。ハリードは視線を伏せた。

サラの姿がない。
「…話を、聞きたいの…」
初めに館を訪ねた時のように、この場にいる誰もが、言葉を呑み込む。

握り締められたエレンの拳が小さく震える。




「魔王殿の奥底にはアビスゲートがあった。そして、ゲートが放つ光の中に、サラと、この少年がいた」
少年を、エレンはここで初めて見遣った。
黒髪と黒い瞳。華奢な体つきには不釣り合いな大剣を背負っている。
「助けようとすると、魔貴族アラケスが現れた。どうにか破って、やっと、サラに声をかけた。
 怪我をしている様子もなかったし、俺の方を見て、俺の名を呼んでくれた」
エレンがうつむく。
「その時…ゲートの間に、声がした」

“宿命の子よ いざ ゲートを開け”



300年に一度、死の星が太陽を覆い隠す。“死食”と呼ばれた。
これが起これば、その年に誕生したあらゆる生命が死に絶える。

ところが、二度の死食において、その定めを跳ね退けた赤ん坊がいた。
それぞれ600年前は魔王、300年前は聖王となった人物だ。
そのため、死食に命を奪われなかった人間は“宿命の子”と名付けられた。



「ゲートを閉じるのが自分の定めだと、サラが云った。
 そしてこの少年を、ゲートの光の外へと解放した」

光と闇を背負わされる“宿命の子”…
およそ18年前の死食でもそのような赤ん坊がいたのかどうか、まだ、誰も知らない。

「残されたサラのもとへ駆け寄ると、俺もシャールさんも、弾き飛ばされてしまった」
エレンには、名詞や動詞、接続詞の羅列にしか聴こえていなかった。
「ゲートが発していた音が止んだ。…サラとともに、光が消えた」
今、自分自身の感情すら分からない。
「…それじゃあ、サラはもう、…」
眩暈もしていないのに視界が溶けて。
それが自分の涙だと判るまで、数秒を要した。


トーマスがエレンの両肩を強く掴んだ。
「エレン、ランスへ行こう。天文学者ヨハンネスに話を聞きに行くんだ!」
天文学者ヨハンネス。星を観測・研究して、アビスゲートの位置と状態を解析した男。
「ゲート装置は破壊せずに戻ってきたんだ。まだ機能するかも知れないし…、とにかく、彼なら何か把握しているはずだ」
今のエレンは、これが耳には入っても、まともに会話を交わす気力を持たない様子。
その背後の男に訊ねた。
「ハリード、一緒に来てくれないか」
「そのつもりだ」
エレンの震える手を取り、トーマスは感情に任せて捲し立てた。
「エレン、行こう!今分からないことはどうだっていい。サラを助けるんだ。俺たちにはそれだけだ!!」


シノンの村で、小さな頃から一緒に過ごした幼馴染の言葉。
きんきんと耳に響いて、停止していた思考回路を揺さぶった。

話したいことが山ほどあるのに、まだ、成長した姿を一目も見ていないのに、
「………、サラ…」
最後に見たのは、怒りや悔しさに満ちた顔だったのに。

エレンの瞳は涙を溜めて、それでも、トーマスの眼差しに焦点を合わせた。




トーマスとシャールは魔王殿地下の扉について調べるため、聖王家を訪問。
その際、アビスゲートについて研究している噂を耳にし、ヨハンネスの館にも立ち寄っていた。
同じく天文学者であったヨハンネスの父も同様の研究を行っていた。そして死食はまた300年の周期を経て起こると発表した。
『死食を予言した』とされ、人心を惑わせた咎で火あぶりになったが、研究の通りに、死食は起こったのだ。
魔王殿のゲートが最後に残され、他の3箇所は既に機能を失っているというヨハンネスの話は、信頼に値すると見ている。


それから、初対面の者同士は自己紹介を済ませた。
シャールは亡きクレメンスの娘ミューズを護りながら、ピドナスラムで暮らしている。
ミューズが毛糸を編み薔薇を育て、ただ静かに過ごす日々に、サラの存在もあったのだという。
力添えをと申し出た。

そして、サラと共にゲートの中にいたという少年だが…。
彼は、何処で生まれたのか、親族の行方、自分の名…。何も分からないのだという。
どうやってゲートへ行き着いたのかの記憶もなく、サラとは魔王殿の最奥で初めて逢って、互いに状況が分からないまま、ゲートの光に縛りつけられじっとしていた。
「サラは僕の、身代わりになってくれたんじゃないかと、…」
「心当たりとか、何かないの?」
首を横に振った。
「でも、僕も、サラを助けたい…」






ハリードはツヴァイクへ向かう船上で、いつものように甲板の舳先に立つエレンに、いつものように付き添った。
「また、寒い思いをするのね」
涙のあとは言葉少なにしていた彼女が、ハリードを見上げて笑う。
「またお前が寒い寒いと騒ぐのを聞いてやらないといかん」
「寒い上にあんたは冷たいんだから」
「散々だな」
いつものような口ぶりで言葉を返してくるが、すぐに表情を消してしまうと、水平線をぼうっとして見つめる。
隣に立ったままで、ハリードは、接し方に迷っている。
「どうしてサラが、こんな目に遭わなくちゃいけないのかな…」
「トーマスが云っていたろう。それはサラを助けてから考えることだ」
「………」
この時エレンは、自分が今までに聞かされたハリードの生い立ちについて辿り始めていた。

奇襲に敗れた国は滅亡。戦乱の中、大切な人たちを失った。
生まれ育った地は対立団体に奪われ、他所から集まった人々によって街が興り、
国を再興させることが既に困難なのだと、彼は話していた。

その彼に向かって、自分の立たされた境遇への苛立ちから吐いた、自分の台詞を、嫌悪した。
よその人間が、アビスに消えてしまえば良かったのに、と。
自分が自分自身に対して隠そうとした、薄汚い本心に、呆然とした。


「…あたし、自分のことしか考えてないんだわ」
涙を落として、唇を噛んだ。
肉体が千切れてしまいそうに痛む錯覚は、罰だと思った。
「知らない誰かが死ねばいいなんて!!!」
「エレン」
ハリードの腕が引き寄せた体を抱いて、甲板にいた船員や乗客の目を引く。
「それでいい。誰がお前を責める?」
「だって、こんなのいや、いやよ!!! もしサラになにかあったら… 怖いの、あたし、もう…」
がたがたと震えているエレンの手は、抱きしめる腕を解こうとしている。
その力の強さに、何か実行に移そうとする意思を感じ取った。
「…サラが、サラが死んじゃうんだったら、あたし…」
「やめろ」
虚ろに定まらないエレンの眼が、ものの数秒、大海原に向いて見開かれた。
衝動的に、死を択びたくなったようだ…と。ハリードは冷静に受け止めた。
故郷の滅亡の後、似たような感情を抱いた経験があるからだ。
「トーマスの気持ちを裏切るのか?」
「………」
「サラが哀しむようなことを、お前にできるのか?」
錯乱状態を経て、呆然とするエレン。
あれから食事量と睡眠時間に悪影響が出ており、ずっと、肉体も精神も不安定だ。

ピドナへ向かう頃から続いている、曇り空と生暖かい潮風がやけに不快で。
晴れの日が好きな彼女を、太陽までもが突き放すのかと、恨めしく思う。
「中へ戻ろう… 雨になりそうだ」
分厚く暗い色をした雲が、行く先を遮っている。


[前] [次]
[目次]
[一覧へ]
[TOP]