ハリードは口を閉ざしていた。
エレンの妹が魔王殿へ連れ去られる理由も解らないし、そこへ向かった2人の安否も気になるが、もちろん。
あれから、宿でシャワーを浴びて、さすがに食事を取らず、結局この件に触れぬままで間仕切りの向こう側のベッドへ消えたエレンが、何を想うのか…、
窓から見える、人の居ない港の灯り。
雨に濡れたガラス越しにぼやける。


そこへ、気配と、床板の軋む音。
振り返ったハリードは、待ち受けていた姿を見つけた。

「…よかった、起きてたのね」
この夜中にでも魔王殿へ乗り込むつもりで、武装しているのでは…と、心構えをしていた。
が、バスローブ姿のエレンにはそのような気勢など、微塵も感じられない。
「腹が減るあまりに這いずり出てきたら介抱してやろうと思ってな」
「何か作ってくれるの?」
そう返して微笑うエレンを傍らに迎え入れる。
無理矢理に笑みを形作る唇が歪むのを、彼女自身でも分かっているだろう。
「なにも…、食べたくない…」
云いながら、ハリードの胸に体を預けた。
背中に腕を回すと、息苦しさを感じるほど、力が籠もってゆく。
「どうしてこんなことになっちゃったの?あたし、どうすればいいの…」
ハリードもそっと、震える肩を包み込んだ。
彼女がこの胸から身を剥がせば、壊れてしまいそうで、
強く抱いた。
10日というだけの行き違い、それが更に、エレンを苦しめているのだろう。
「お前にとってトーマスは信頼のおける仲間だろう。シャールという男も、相当腕の立つ術戦士だと聞く。
 2人に任せてもいいだろうし、お前が居ても立ってもいられないなら、加勢しに行くこともできる。
 あまり、今回のことを考えたくはないだろうが、眠れないなら、どうするのかを決めよう」
一言一言を静かに置くように紡いで、ハリードは抱いたままの腕を解かずに、エレンをベッドへ座らせた。
「…それか、少し落ち着くまで、泣いてもいいさ」
声を押し殺して咽ぶのを、雨音と重ね合わせて聴く。
それがいつまでも続くような絶望感。ハリードがここへ来て、エレンと同じだけの恐怖を噛み締める。




かつて人間界へ居座った魔貴族は、世界制服を目論んだ魔王のような具体的な企みは持たず、ただ好き勝手に暴れていたのだと伝えられている。
現代、再びその影を現した彼らは、戦や混乱を引き起こしたいのか。少女を人質に要求したいことでもあるのだろうか。
ゲートを開くという目的だけははっきりしているが、それとサラとの関わりは…?
何も解らないのにそうやって推測するのを止められず、ハリードは眉を顰めていた。
そうしていると、エレンがようやく顔を上げた。
「サラはあたしが護るって、決めたもの」
ハリードの緊張を解くのは、彼女らしい一言だ。
「それに、黙って待ってるより、行ってモンスターの相手をする方が、気が紛れそうよ」
「よし。行くか」
「ハリードも来てくれるの?」

あれはいつだったろう。それを記憶から掘り起こすのは気が進まない。
砂漠の南の果てを、身ひとつで目指したハリード。
故郷を滅亡させられた哀しみ、エレンへの感情、自身の生命…
すべてを投げ出そうとして。

それを、傷だらけで追ってきたエレンに、
そばにいると誓った。

「今さらお前を見捨てるような真似はせん」
ただし、そばにいるという誓いを口に出したことはなく、自分の中でだけこれを確かめて、エレンの髪を撫でた。
「ありがとう、ハリード」
冷静さを取り戻し、いや、多少はそれを装っていたのだろうが、エレンはしっかりとした口調でハリードと話し合いをした。
明朝、魔王殿へ出向くことに。




悪い人間と善い人間となら、後者の方が数は多いはずだが、
人間は群れると責任の所在を自分以外のところへ押しつけてしまうような性質があった。
アビスゲートが再び開いたのではないか、という噂話は世界中を駆け巡っている。
ところが、どこかの誰かがこれを封じてくれるはずだと、誰もがそう考えて、
あるいはかつて聖王がこれを成し遂げたという史実に縋り、手放しに平和を願う。

名もなき戦士が、これを背負わされ、血を流す。
後の世でまた史実として語られるそれは、今は、何もかも深い霞の手に落ちて。
人間も、魔貴族すらも、この世界がこれから辿ってゆく運命の道筋を知らない。




日の出の頃、陽光を纏ったふたりの眼差しに映える、魔王の城。
踏み入ってみれば、至るところの損傷が激しく、天井や壁に開いた大穴は太陽の光を吸い寄せている。
冒険初心者の鍛練の場に成り下がっている…という話の通り、ほぼ一本道だ。
また、アビスゲートから流れ込む力が、元から人間界に棲んでいたモンスターをより凶悪に変貌させ、更には未知のモンスターどもをこの世界へと導いた。
皮肉にもそんな彼らを相手にし続けて来たふたりは格段に武術の腕を上げており、この魔王殿では、障壁となり得るまでの者が居なかった。

そして辿り着いた、玉座の間。
広間中央に巨大な六角柱の黒水晶のオブジェが並ぶ。魔王はこの椅子で圧政を執り行った。
その玉座の後方にある扉。更にこの先へ進もうと手をかけるが。
「開かないな」
「鍵も見当たらないわね」
高い天井までの大きな扉。顔を見合わせふたりで体ごと押してみるが、びくともしない。
しかし見たところ木製である。エレンが戦斧を振りかぶり、叩きつけた。
「!?」
衝撃がそのままエレンの腕へ返ってきた。
二度三度とそれを繰り返してみるが、岩のように硬いものを打っている感触の割に、扉には何の変化もない。
「傷のひとつもつかないわ」
「魔力で膜でも張ってあるんだろう」
「聖王様が封じたのかしらね」
ハリードが改めて触れてみた扉は本当に木製のそれでしかないが。
リング状の溝を見つけて指先でなぞってみると、そこから体へ何かが流れ込む感覚がした。


『指輪を・・・』


その声はハリードの頭の中だけで鳴った。はっとして手を離す。
「どうしたの?」
「…指輪を、だとよ」
「何か聴こえたの?」
ハリードの指先が触れた位置をエレンも覗き込んだ。
「指輪が鍵になっているわけだ。それで封印が解けると」
「トムはそれを探しに戻ったのね。北っていうのはきっと、聖王様が住んでいたランスだわ」
念のため足下を見回すが砂利や埃で汚れているばかりだ。当然、300年もの封印を解く品を置き去りにはしないだろう。
ふたりの行く手はここで阻まれた。
「しかしこんなところで寝て待つのも物騒で仕方がないぜ。どうする?」
「…街へ戻るしかないんじゃない?」
戦斧を担いで、肩を竦める仕種のエレン。
ハリードは、目的の場所への道を絶たれた上での、その気丈さを信じることにした。
「せっかくついて来てもらったのに、残念ね」
「いい暇潰しになったさ」




“最悪の結末”を、考えないわけではない。
感情を持つのだからそのような思考に及ぶことは避けられない。
その上で、それを否定し、押し込めることによって、精神のバランスを保とうとする。

運命は果たして、そんな願いに、耳を傾けるのか。

ふたりは閉ざされた扉を後にした。
トーマスとシャールと、サラ。
3人がピドナの街へ帰る光景を、待ち望みながら。


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