東の地は、建造物も独特だ。引き戸と天井との間に手の込んだ透かし彫刻による装飾があって、しかもそれは通気の役割も兼ねていそうだ。
部屋に置いてあった寝間着も、絹に細かな刺繍が施してある。
エレンは相変わらず充分な睡眠を取れずにいて、白のシーツと朱の掛け毛布の色調をいつまでも、目に眩しく感じている。
濃紺の夜空に浮かぶ下弦の三日月が、鋭い刃物のように見えた。
喉を引き裂かれて、鮮血を噴き出して死ぬ。
そんな妄想に取り憑かれた。
三日月が引き裂いた喉を手で押さえ、息苦しくなって、
輝きを映し出していた瞳から、涙が零れ落ちた。
これから何処へ行くのだろう。この世界を後にして。
どうして、泣いているのだろう。
床にへたり込んで、しばらく、涙を落とすことと呼吸だけを繰り返した。
6歳の頃、家族でシノンへ移住して来たユリアン。
単純に同じ年齢の友達が増えたと喜び勇んで、遊びに誘い始めてからすぐのこと。
いつも憂鬱そうにしている彼が、妹が死食の日に死んでしまったのだと打ち明けてくれた。
当時は互いに死食というこの世の定めを理解していなかったが、笑顔を失くしたユリアンの姿には子供なりに哀しさを覚えた。
その頃まだ、サラは赤ん坊だった。
かわいくて仕方がなく、ろくに出来もしないのに、母親の見よう見まねで世話をした日々。
この子がもし、死んでしまったとしたら?…そんな想像をして、今日のこの夜のように、一晩泣きじゃくった。
サラは、自分が護ってやらなければ。幼心にそう決意をして、強くなることを目指した。
やがて男とは肉体的な差が出てくる。必死にそれに抗って、喰らいついた。
男女の違いを振りかざしてからかってきた男を、力ずくで捻じ伏せたことも一度や二度ではない。
サラの身に何が降りかかろうとも、撥ね退けてみせる。
どんな悪党にも、指一本触れさせはしない。
この身がどれだけ傷ついたとしても、サラだけは、この腕で、
意識が、自分の肉体から離れたところに、ぽっかり浮かんでいるような錯覚。
綺麗な夜空を視て引き込まれているのか、睡魔が襲って微睡んでいるのか、エレンは区別がつかずにいる。
異世界へ通ずるゲートの向こう側へ乗り込むことが怖い、とか。
既にサラが何者かの手で殺されてしまっているのではないか、とか。
様々な負の心情が渦巻いて、夢と現実の境目を失くしている。
ちくりと頭痛がした。
睡眠不足が続いているせいだろうがしかし、それでエレンは意識をはっきりとさせた。
このままでは駄目だと思って、何か目的を抱いて立ち上がり、部屋を出る。
「んっ?」
俯いたまま暗い廊下へ出て、エレンは前方から歩いてくる人物の発した声で顔を上げた。
ハリードだ。驚いて立ち止まると彼も同様に足を止める。
「…お前か。こんな時間にどこへ行くんだ」
睫毛に溜まっていた涙を拭っていなかった。慌てて寝間着の袖で目元を掠める。
そしてエレンは顔を赤くして口篭る。ここにいるハリードに行先を伝えられない理由があるのだ。
「具合でも悪いのか?」
「……。あの、ハリードの部屋、行こうとしてたの…」
暫しの沈黙。
彼はこうして部屋を出てきているのだから、迷惑だったかと、エレンはまた俯いた。
「ごめんなさい、戻るわ…」
「いや、待て」
手を取られる。内庭に面した廊下側の窓から明かりは差さず、点在する蝋燭の灯りだけだ。
ハリードはエレンを引き寄せて、表情のわかる距離に接近してから、白状した。
「あのな、俺もだ」
「え?」
「…お前の部屋に行こうとしていたところだ」
暫しの沈黙…。
明日、黄京城へ突入するという緊張感が必要な中、『ほぼ同じタイミングに同じ目的を持ってばったり会った』という展開は、間抜けだ。
「なにそれ」
「お互い様だろ。笑うなよ」
「ふふっ」
「それじゃ、俺がお前を連れ込むぜ」
「あたし、襲われちゃうの?」
「どうだかな」
一応、真面目な気持ちで同じ目的を持ったふたり。
深い時間というのもあって、窓際で静かに、月光を浴びていた。
「おい、ここで寝る気か?」
「うん」
エレンはベッドへ。こちらは掛け毛布が深い緑色で、幾分目に優しい。
「襲われるぞ」
「殴り飛ばさなくちゃいけないから、体に力が入っていいかもね」
寒さはないが、毛布に潜り込むと快適だ。夜が明ける前に仕度を始めることになっているから、少しでも眠りに良い環境を求めたい。
「正直に云うわ。独りで寝るのが、怖いの」
ハリードは微笑んで、エレンの手を握った。
「都合がいい。眠れずにいるだろうからと部屋を訪ねるつもりだった」
流石に隣に寝そべったりはせずに、腰を下ろして、毛布を少し整える。
「要求があれば特別に聞いてやるぜ」
気怠そうな、無防備な表情をしているエレン…
「襲って」
「………」
「真に受けてるじゃない」
ハリードは気まずそうに首を傾げて、エレンの笑いを誘った。
無事、眠りに就けそうな、今度こそ本物の微睡み。
その最中でエレンは、隣でじっと見守ってくれている人の掌の温度を、いつまでも一番に感じ取っている。
まともに分析してしまえば入眠の際の体温低下によって、ハリードの体温との差が表れている、というだけなのかも知れないが…。
「…ハリード…」
「ん?」
「ずっと…、そこにいて…」
エレンが寝言のように呟く、そして、握り合う手が少し緩んで、呼吸が眠りに落ちてゆく。
こんなに穏やかな時間は、しばらく、味わえないのだろう。
晴れの日が好きなエレンだから、せめて、明日は太陽が恵みを振り撒いてくれるように。
ハリードは夜空に雲が掛かっていないのを確かめながら、下弦の三日月に祈っていた。
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