温海沿岸地方のリゾート地、グレートアーチ。
一年を通して温暖で、いつでも観光客で賑わっている。
波打ち際の水上コテージにもなかなか空きがない…が、直前にキャンセルが出たといい、運良くそこに滞在することとなった。
「あたしたち、きっと名前が残っちゃうわよ、ハリード」
海を眺めていたエレンが振り向くと、彼は笑った。
1年ほど前、ロアーヌで起きた内部の反乱に巻き込まれ、出逢ったふたり。
そこから旅の道連れとなり各地を流れる日々、バンガードという街で、大きな運命の渦がふたりを呑み込んだ。
───
魔海候フォルネウス。
四魔貴族の一人、かつて西太洋のゲートよりその姿を現した術戦士だ。
16年前の死食で半ば開かれたそのゲートから、バンガードの街へ送り込まれたフォルネウスの手下。
バンガードは聖王の時代、フォルネウス討伐のために建造された巨大潜水艇である。手下を寄越したのはこれを潰す狙いだ。
街の住人が殺害され、いよいよアビスの脅威が形を顕したのを目の当たりにしたふたり。
やがて出逢ったハーマンという老人に導かれ、“潜水艇バンガード”を目覚めさせることとなる。
深海の要塞・海底宮には、フォルネウスの創り出した幻影が待ち構えていた。
幻影とはいえ、巨大魚のようなおぞましい姿をした魔物。
ふたりはハーマンと共に立ち向かい、それを打ち破った。
そして、ゲート装置を破壊した。
───
「何と書かれるんだかな。これから悪い行いはできんぞ」
闘いのさなかの、厳しいばかりの表情がエレンの記憶には色濃く残っていた。
以前のように穏やかに微笑うハリードを見上げて、目を細めた。
「今まで通りでいればいいわ。あたしも、ハリードも。あたしたちが何か変わったわけじゃないもの」
エレンは、この1年で少し大人びた。壮絶な闘いを経験したせいでもあるのだろう。
「お前に諭されるとはな」
「おっさんと違って、あたしはまだ成長の余地があるのよ」
「そう遠くないうちに、成長から老化に変わるんだぞ。シワとかシミとか…」
「あたしのいい話をぶち壊さないでちょうだいっ」
海底宮から船へ…即ちバンガードの街へ帰還すると、それはそれは盛大に迎えられた。
金や道具をあれこれ贈っていただき、有難いとは思いつつも、ちやほやされるのはあまり得意でないふたり。
そそくさと退散してここへ来たのは、息抜きをしようという目的であった。
何せ、300年も昔に動いたきりの潜水艇だ。
再び役目を果たすまでに、ふたりは半年以上も各地を右往左往したのである。
グレートアーチに来て3日目の早朝。
歩き回ってみたり、泳いでみたり、昼寝をしてみたり、ふたりの戦士は休暇を満喫している。本日は水平線からの日の出を堪能した。
リゾートというと数週間、数ヵ月という単位が一般的なはずだが、ハリードはそろそろエレンが飽きる頃だと見ていた。
「何もかもやりつくしたら退屈ね。体も鈍っちゃいそう」
見事に的中し、一人で笑いをかみ殺す。
「でも、最後にひと泳ぎしたいな」
“ひと泳ぎ”は沖までの遠泳だ。素潜りをしてヒトデを土産に戻ってきたり、クラゲに刺されたと騒ぎながら駆け戻ってきたことも。
お前がフォルネウスのように海を暴れ回る姿は面白い、と表現したところ、海底に引きずり込んでやる!と脅されてしまったが。
ハリードはそうやって、エレンに連れ添って過ごしている。
朝食の後にビーチへ出るがまだ海水が冷たく、波打ち際を散歩することにした。
「次はどこに行く?」
「いつもあたしに委ねるわね」
共に旅をして暮らすこと、こうして次の行き先について相談をすること。
この休暇が過ぎれば、元の生活に戻る。
「ロアーヌ軍に加勢しに行ったりしてね。着いたころには終わってそうだけど」
昨晩、パブの主人から、ロアーヌがビューネイの手下からの襲撃を受けたとの情報を得ていた。
しかしミカエルならば安心だろうと、領主としての手腕や、反乱を起こしたゴドウィン軍との戦の話を交え、主人に語ったのだった。
「報酬を弾んでいただけるのなら急ぎたいものだ」
「ふふっ」
水着姿のエレンは、髪は下ろしたままでいる。普段よりも女性としての色が強い、そのなりで振り向いて笑うさまは、魅力的だ。
ハリードはひと呼吸の間、そんな彼女を目に留め、
ふと、風に靡いているその髪をひと束とり、するりと指を通した。
「だいぶ、髪が伸びたな」
砂の上の足跡の距離が狭まり、向かい合う位置に立った男の顔を、見上げることができないエレン。
「そろそろ切らなきゃ、邪魔になるわね」
朝焼けの終わりが、水平線へ沈んでゆく、その光景すら霞んでしまうような、若い娘の恥じらう貌。
「切ってしまうのも、惜しい気がする…」
男の手がまた、髪を分け、そのまま輪郭を撫でる。
頬を赤くして、なにか意を決したように、エレンが顔を上げた。
ひとつの線上に、互いの視線を乗せた。
波の音が遠退いて、ふたりだけを包んだ静寂。
そこへ、地元の子供だろうか、町の方から騒がしく海へ駆け寄る声。
それに交じって聴こえた波の音が、ふたりの気を逸らせた。
エレンはやんわりと、男の手を押し退けた。
「…もう、からかわないで」
そう云って先ほどまで歩いていた方向へ足を向ける、その後ろで、ハリードがいつもの声で笑った。
「安心しろ、お前の髪は俺が切ってやる」
「絶対変になるわ」
いつもの口ぶりで反撃したエレンだが、しばらく後ろを振り向くことはなかった。
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