今晩の宿は貸しロッジ。山脈の麓は殺風景な岩場続きで、貸し馬と同様、人里がないために経営されている。
ハリードはロッジ脇の岩場に上り、ひとりで夕焼けを眺めていた。

エレンは馬の世話を請け負った。草を食むのを見守ってやりながら声をかける。
「さっきは急に走らせてごめんなさい」
まだ若い馬で、先ほどの“追いかけっこ”を苦にはしていない様子。遊びだと思っていたのかも。
馬具に提げられているブラシで体を撫でてやると、エレンの方へ頬を擦り寄せてきた。
「ふふっ。かわいい」
馬術を趣味とするエレンは故郷でもよく馬と触れ合った。手馴れた仕種に2頭も安心しているようだ。
食糧を準備してやり、鼻や頬を撫でて、エレンもまた穏やかなひとときを過ごす。
「あんたたち、どっちも綺麗な目をしてるわ。この仕事が好きなのね」
馬は繊細な性格だと云われるが、様々な人間を乗せて働く2頭の顔立ちは、どことなく優しげだ。
「あたしも、外の世界へ出たら、優しくなれるかな…」

あのハリードはああ見えて、ちょっとした所作が柔らかく、割にのんびりした性格。
教えたがりなようであれこれと話して聞かされるが、押しつけがましいこともないし、有用な知識を授けてくれる。
単純に30を過ぎれば落ち着くのだろうとも思いつつ…
(変なやつだけど)
そのハリードは、ごつごつした岩の上で器用に寝そべっている。
荷物や馬具は全てロッジの中へ置いてあるのだが、曲刀だけを腰に提げたままだ。

エレンは引き寄せられるようにして岩場へ足を向けていた。
砂利を踏む音で気づいたか、ハリードはすぐ振り向いた。
「お前もくるか?」
いよいよ太陽が沈もうかというタイミングを迎え、空は一層美しく色づいている。
その美しさには惹かれるのだが、岩場の向こう側が崖であることを分かっているエレンは、後ずさった。
「えーと…、高いところは苦手なのよね…」
「なんだ、意外だな。ほいほいと木登りでもしそうなのにな」
「その木登りをしていて落ちたの。左腕を骨折したわ」
そんな会話をしておきながらハリードは、差し出した手をひらひら扇いで、こちらへ来い…と。
行くという返事もしていないし、むしろ高所恐怖症だという話をしたのに、こんな調子だ。
(やっぱり、変なやつ)
強引さに負けて、手をとった。
すると、軽々と引き上げられ、身構えていなかったエレンは男の胴体にしがみついた。
「こ、心の準備っていうものがあるでしょ!」
笑いながら、体勢を整える間には背中を支えてくれる。総じて悪気のなさそうなところが却ってたちが悪いと、エレンは思った。

エレンの視界に、生まれて初めて見る景色が広がっていた。
広大な森の向こうの入り江。夕焼けの色が非現実感を強める。
今のところ、感激よりも、遠くへ来てしまった…という孤独感のほうが大きい。
「ハリード、あたしに武術を教えて」
「ふむ。お前は我流か?」
「そうね。村のみんなと格闘ごっこをしてきた感じよ」
開拓民の村に武術の道場はない。
実践の段階に入りたかったが叶わず、得られた称号は“喧嘩番長”といったところか。
「村のみんなは自警団に所属して初めて、武術に手をつけるの。昔から武術をやってるあたしの相手にはならなかったわ」
「病院が繁盛してしょうがないな」
「あんたって二言くらい多いわよね!」
風の流れが少し止まると、ハリードの衣服からお香の匂いがすることに気づいた。
「お香なんか焚くの?」
「ああ、虫よけだ」
「おっさんくさい匂い…」
「三言多いぞ」




他のロッジの宿泊客が鍋を振る舞ってくれたので、遠慮なくいただいた。
旅人、行商、運搬業者と職業は様々であったが、焚火を囲んでしばらく談笑した。
解散してロッジへ戻ると、小型の暖炉に薪をくべる。
「退屈じゃないかと思ってたけど、楽しいものなのね」
「まあな。ここは常連客が多いらしい」
エレンは下ろした髪を梳かしながら、暖炉の前に座り込んでいる。
とはいえ、ハリードからの指示で、武具類は仕舞い込まずにベッド周りへ配置。鍵が甘いのだという。
順調に旅の知識を積み重ねるエレンである。

「…なぁ、エレン」
ベッドに腰掛けて刀の手入れをしながら、ハリードが話し始めた。
「お前は俺に、過去のことだとか旅の理由だとかを訊かないんだな」
「そうね。どうして?」
「旅先で知り合う奴は大抵、その辺を探るんだ」
「話してくれてもいいけど」
「いや…」
刀を鞘へ納める音と、僅かな沈黙。
彼が何を知りたいか察して、エレンが答えた。
「その人と一緒にいて、必要なければ訊かないわ。後ろを見てもしょうがないもの。それより明日の話をする方が得よ」
ハリードは微笑って、刀を枕元へ。毛布を整える仕種。
「訊くだけ訊いておしまい?」

どんな答えが欲しかったのか?それは自分でも分からない。
過去のことも旅の理由も、あまり他人に語れるようなものでないのは確かだが。
ただ、明日の話をする方が得だと、当然のように云ってのける性格は気味がよく、充足感を得た。
「妙なことを訊いて悪かった。少し、気にかかっただけだ」
これからランスまで旅の道連れにすること、武術を仕込んでやる約束、
“明日を待ちわびる”という生温い情が湧くのを自覚する。


エレンがおもむろに立ち上がり、ハリードの隣へやってきた。
「じゃあ、代わりにあたしの話をするわ」
日に灼けた肌、日に当たって傷んだ髪。あまり、時間をかけて手入れをすることはないのだろうか。
お風呂に入れないなんて!と駄々をこねることがないのは助かるとは思っていたハリードだが。
「シノンで毎年、腕相撲大会があるの。今年はあたしが優勝したのよ」
「それは、誰でも参加できるようなやつか」
「もちろん!」
「俺が教えることはもうないんじゃないか?」
得意げな顔をしているエレンはハリードの右腕を引っぱり寄せて、腕相撲の構えのようにして手を握る。
「あ、やっぱり強そう。逆にあたしが腕相撲のコツを教えてあげようかしら」
薄々感じていたが、このエレンはどうやら、自分の容姿に加えて男女のあれこれにも無頓着らしい。

握り合った手を、今度はハリードの方が引き寄せた。
妖しい眼差しが間近で瞬く。
「お前、もう少し自覚しろよ。男にやすやすと近づくな」
「え……」
「俺を疑うくらいでないと心配だ」
ふたりの背中側にあるのはベッドマットで、今、手を握られた状態で…。
例の、首筋に咬みつかれるのなんの、というジョークをまた改めて、映像として頭の中に浮かべてしまう。
もしもハリードにそのつもりがあったなら、どうなっていたか…ということを、エレンはしっかり思い知った。
顔を赤くして、男の体をやんわりと突っぱねた。
「わかったから」
そそくさと自分のベッドへ向かうと、仕切りの役割のカーテンを閉めた。
「おやすみ、エレン」
「おやすみなさい!」


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