Cicuta virosa
ただ単に異性どうしであるからという事情で、眠るベッドは別室か、あるいは間仕切りを隔てているか、という客室を選択しているが
それが叶わないのなら隣り合って眠ることもあった。世界中を旅してまわるうち、そんな日も巡ってくる。
財布を共有しているくらいなのだから、今さら、盗み出すような持ち物もないし。
信頼関係…というよりは、同士のような間柄にある。
これといって褒めるところも、貶すところもないような、それなりのグレードの宿だ。
つまりベッドは適度に柔らかく、枕は中央が潰れていて、シーツはただの白色。
得られる睡眠の質もそれなりで、ハリードはただ、必要なだけの眠りのひとときを過ごしていた。
しかし、胴体を覆うような圧迫感。
それから、首もとには冷ややかな金属の接近する感覚。
瞼を押し上げると、馬乗りになった人間が、自分の首にアクスのブレイドを突き付けるような映像が飛び込んできた。
「…?」
物騒な出来事…と思いきや顔を見るとやはり、エレンだ。
起こしてくれるにしても悪趣味だ、と、いうようなことを発言しようと息を吸ったが、エレンが先に口を開こうとするので、とりやめにする。
「今まで騙してて、ごめんなさい」
ブレイドがぴたりと肌につく。
切れ味は鈍く、血を流すことはない。ただ、喉を圧す重量が不気味だ。
「ずっとこんな機を待っていたわ。あたし、お金が必要なの。どうしても」
彼女の愛用する武器で、首を落とすのには比較的、適している。が、ベッドの上では衝撃が吸収されてしまうのではと、ハリードは心配をした。
滅多打ちにでもするのだろうが、なるべくなら一撃で意識を喪失しておきたい。
よく鍛えられ、筋肉をまとった女の腕。アクスが持ち上がれば、収縮した筋肉が隆起する。
彫刻でも眺めるかのように、ほれぼれと目で追った。
「カムシーンもついでにもらうわね」
この腕に惚れ込んだのがはじまりだったのだから、一撃で…などと贅沢は云うまい。
それにしても、男を見下ろす若い女のまなざしは、美しい。
最期の記憶とするには充分すぎるほどだ。
深い呼吸とともに瞼を閉じた。
「なにか云ったらどうなの!?」
瞼の向こうで、つんつんと尖っているような声がする。
仕方なしに目を開けた。
ぼすっ、という音は、隣のエレンのベッドへアクスが放り投げられた音だ。
「寝起きでこれは難易度が高いぞ」
「せっかく迫真の演技をしたのに。少しは慌てたら?」
決してこのような悪戯が日常というわけではないが、ハリードにとっては想定ができる範疇のこと…というか。
今日はすぐそばに相手のベッドがあったため、寝込みを襲われてどういった反応をみせるか試そうと思い立っただけ、のはずだ。
ベッドが離れていたなら、接近する最中に覚醒してしまう。ハリードはそのように訓練を受けてきている。
「だいたい、あたしが馬乗りになろうとしても黙って寝たふりなんて。瞼の下で眼球が動くのは分かったのよ」
「殺意を感じないのなら、慌てず騒がずだ」
「つまらない男ね!」
アクスよりもグサリとくる台詞に、これまでの流れで一番のダメージを受けたハリードである。
胴体の上から動いてくれないエレンだが、彼女の体重がかかるのはわりと心地が好く、このまま浸っておくことに。
懐中時計をとれば、ちょうど起床時刻のころだ。
ハリードにとって、気持ちの良い目覚めだと云っても過言ではない。…いや、対してエレンはどうやらまだ、不満を抱えていそうな顔。
「もし、あたしが本当にハリードの首をとろうとしてたら、どうするの?」
「いいぜ。ひと思いにやってくれ」
「曲刀の使い手じゃないあたしに、カムシーンを奪われるのよ」
「売り飛ばされ、闇ルートへ出回るとしても、それを定めだと考える」
甘く飾りつけた返答でなぐさめてやるような、器用なことはハリードにはできないのだった。
考えたことをそのまま音声にした。
エレンからの尋問は続く。
「あたしが本当に、油断をさせるためにハリードに近づいていたとしたら?」
ハリードは微笑って、先ほどまでアクスを握っていた腕をとり、引き寄せ、
手の甲に唇を落とした。
「幸福な夢だったと思うさ」
これといって褒めるところも、貶すところもないような、それなりのグレードの宿は、それほど栄えてはいない街にある。
外の静けさが室内へも流れ込んで、ふたりが作った沈黙を際立たせた。
その間、男は右腕を離さなかった。
まなざしをそむけた若い女の横顔が、朝陽の光を帯びるのを、じっと見つめた。
「バカね。こんな小娘にだまされるなんて」
END
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