Hi-tension Suite
この世界は、平面である。その周りを天体が移動している。
いや、この世界は端と端が繋がっている。天体が動いて見えるのは、地面が動いているからだ。
と、いう2つの説がぶつかり合い、学者や聖職者たちが火花を散らし始めた。
正確には、“平面なのか端と端が繋がっているのか”の議論が、だ。
それ以前からも世界がどうなっているのかと考える人々はいたが、議論の内容が絞られてきたのは最近のことである。
というのも、この世に混沌をもたらした『死星』という天体が観測されなくなった頃に、世界の様子が少し変わったのだそうだ。
例えば、各地で地底から熱湯が湧いたりだとか…。
「オンセン?」
書店入口すぐに設置されている人気本のコーナーに、見慣れぬ単語を発見したのはエレンだ。
「…って、何?」
疑問が湧いたら、情報通のハリードに訊くのが決まり。
「俺も噂でしか聞かないが、各地で地底から熱湯が湧いているらしい」
「熱湯!?どうして?」
「それはまだ解明されていない」
エレンの手が、でかでかと『温泉』と表記された旅行ガイド本を取った。
世界各地のホテル、大衆浴場などの案内文や絵が並んでいる。
要するに風呂ではあるが、オンセンの売りは別のところだ。
「病気が治るって書いてあるわ」
「それはさすがに誇張だな」
「こっちは肌がきれいになるって」
「それは分からんでもない」
効能の他にも湯の色、湯の手触りなど様々な項目が載っている。
体を洗うこと、温めること以外の要素が人々の関心を集めているのだ。
「ミカエル様もだって」
「なに?」
----------
●ロアーヌ北に湧き出た温泉 効能:切り傷、火傷、皮膚病
あのロアーヌ侯爵ミカエル・アウスバッハ氏も絶賛の湯!
王宮内に湯を引き、激務の疲れや戦いの傷を癒しておられます!
主な浴場 ホテル・ロアーヌ 8番地1番通り/ホテル・ヨルド 5番地3番通り/ロアーヌ・バスハウス 7番地1番通り
※その他の浴場など詳細はロアーヌ観光協会へおたずねください。
----------
「あのお方は涼しい顔して風呂好きか?」
ロアーヌ侯爵ミカエルは、エレンにとっては領主。ロアーヌという城下町も故郷に近く、馴染みが深い。
何だかとても身近なものに感じられ、興味が湧いた。
「行ってみたいな」
というわけで、ふたりはロアーヌへ。
これまでにも利用したことのあるホテルだったが、フロントで訊いてみると、早速パンフレットを差し出された。
1階の大浴場だけでなく全客室に温泉水を導入。
更にここで、悪魔の囁きが…。
「お客様、実は本日キャンセルが出ておりまして、最上階のスイートルームに空きがございます。
スイートルームの浴槽は大きく造ってありますから、ゆったりと温泉に浸かっていただけますよ」
「いくらだ?」
「おふたり様ご1泊2食つきで30オーラムとなります」
標準クラスの客室なら、2名1泊朝食つきで2オーラムである。
金にうるさいハリードは考え込んだ。
ここでエレンの顔を見てはいけないと思ったが、突き刺さるような視線を感じ、うっかり隣を見下ろしてしまった。
お願いごとをする時の顔だ。
「………奮発するか」
「ほんと!?」
というわけで、ふたりは最上階へ。
広々とした客室。ばたばたと見て回ったエレンによると、リビング・書斎・寝室の3室あるそうだ。
「やれやれ…」
ハリードが荷袋を下ろし、腰に提げた曲刀を外した頃、エレンが浴室へ。
ついて行ってみると…。
「うわ〜っ」
同時に7〜8人は入れそうな大きさの浴槽。
温泉というものはよほど大量に湧くのだろうか、キマイラの石像の口からはざばざばと湯が流れ続けている。
「30オーラムと云われればそうか…」
「さっそく入らなくちゃ損だわ!」
さっそく入ったエレン曰く、オンセンは何となく体に良さそうな感じはした、ということだった。
いわゆる貧乏性というやつで、ふたりは外出をせず、広い客室で過ごしていた。
有名な家具工房のソファ、ロアーヌの街並みが一望できる大きな窓。
テーブルに飾ってある生花には、『本日のお花』というカードに、花の名前、花言葉が添えてある。
連泊すれば毎日違う花を飾っていただけるのだろう。
そして15時ぴったりに運ばれてきたケーキ、クッキー、紅茶。
「たまにはいいもんだ」
ハリードもすっかりその気で、ソファでふんぞり返ってティーカップを傾ける。
「帰るときは、書斎で物書きをしましたよっていう顔をしなきゃ、かっこつかないわね」
「あとでアリバイを作っておこう」
「くしゃくしゃに丸めた紙をゴミ箱に入れておけばいい?」
「俺がペンを耳に挟んで出る」
「うさんくさい!」
19時からのディナーは、2階のレストランでフルコースをいただけると案内されたが、旅の戦士はあいにく衣裳を持っていない。
ルームサービスの形でお願いして、これまた客室で。
部屋着のままで人目を気にせず食べられる方がふたりの性には合っているから、充分だ。
「ワインはお風呂の後がいいんじゃない?」
ということで食器と一緒に未開封のワインも下げていただき、21時になったらつまみと一緒に持ってきてくださるようオーダーした。
なお、伝票にチップの額を書き込む際、少しハリードの手が止まったことは云うまでもない。
「一緒に入るか」
20時前、スイートルームで囁いた男の台詞はまるで、ハネムーンにやってきた新郎のようだ。
「…うん」
「!?」
もちろんジョークだ。ところがすんなりと了承されてしまい、ハリードの方が慌てた。
「せっかくだものね」
「せっかく?」
「じゃあ、先に入って。体を洗い終わったら呼んでね」
薄い乳白色の湯は独特の匂いがする。硫黄の成分を含んでいるとパンフレットに記載されていた。
確かに、何となく体に良さそうな感じはするものだ。
ミカエル候が王宮に温泉水を引かせたのは、個人的な嗜好もあるのかも知れないが、この地方で沸いた温泉水は傷にも良いということだった。
それが兵士たちの心身を癒すのなら、果ては国のためにもなるか…と、それらしき考え事をした。
「おーい、いいぞ」
浴槽内側の段差に腰掛け、洗い終えた長い髪をまとめながらエレンを呼んだ。
間もなく浴室の扉が開いて、裸足の足音が接近してくる。
極力、平静を装って振り向くと…
「あ、やらしい顔してる」
エレンはショートパンツにタンクトップを着て、風呂場の椅子を持ってきた。
「………」
「足だけ浸かろうと思って」
ほっそりと…はしていないが、筋肉質でメリハリのある脚。
やらしい顔でそれを眺めたハリードは、頭を軽く小突かれた。
「体にいいお湯がいくらでも湧いて出るなんて、都合が良すぎる気もするわね」
「そのうち尽きたりしてな」
ふたりは学者でも聖職者でもなく、温泉水を引く工事に巨額の費用を投じた施設のオーナーでもないから、ありがたく使うだけだ。
エレンの足が、ハリードに湯をひっかけた。
「おいおい。俺を誰だと思ってる」
「ハリードでしょ」
これで怒るような人ではないし、むしろ普段見せないようなくだけた笑顔でいて、エレンは完全に気を抜いた。
腕を掴まれたと思った時には、強い力で引き寄せられることに抵抗をする隙はなく…。
「ちょっ…!!」
スイートルームはフロアに1室ずつだといい、多少、羽目を外しても問題はなさそうではある。
水面を叩く大きな音、水飛沫。
さすがはエレン、咄嗟に身を捩って脚を上げ、浴槽のふちにぶつけることは避けた。
当然ハリードもそうならないようにと腕を広げて構えていたが、受け止めるだけで済む。
「反撃にしてはひどすぎない!?」
「はっはっは」
膝の上へ座らされ、両腕で腰をしっかりと抱えられたエレン。
上機嫌そうな男の顔が自分の顔と同じくらいの高さに。
「せっかくだからな」
この人のことを、好きだな、と、再認識してしまうタイミングがエレンにはいくつかあって、
それがたった今のことだ。
衣服も下着も、これではチェックアウトまでに乾かないとか、
やらしい顔をして、透けて見えている下着の紐をなぞる指の動きとか、
もうひと言なにか怒鳴ってやろうと思っていたのに…
「ヘンタイ、バカ、おっさん」
幸運にもそういうことを無しにしてもらえたハリードは、要求した数だけのキスをした。
ふたりともいい大人だから、21時までには浴室を出て、ボーイを出迎える。
ワイン、クラッカー、カプレーゼをテーブルの上へ並べていただくと、いかにもな雰囲気だ。
ほとんど灯りのなくなってしまったロアーヌの街並み。その代わり、星が綺麗に見えた。
「明日から、朝食はパン1個、昼食は握り飯が2個だ」
ハリードは相変わらずソファでふんぞり返っているが、隣にはエレンもいた。
脚を折って座面に乗せ、同様にお行儀が悪い。
「減らすのはまずお酒でしょ?」
「それは勘弁してくれ」
こんな会話を交わしながらワインを注ぐ。
特別な夜のようでいて、ふたりはほとんどいつもの調子で、ただ、少しだけ夜更かしを。
「楽しいな。うれしい」
浴槽でエレンを膝の上に乗せたとき、ぽつりと礼を云ってくれたかと思えば、抱きつかれてしまった。
そのような理由で1泊30オーラムもの出費を後悔しない自分がどれほど甘いか、ハリードは分かっているつもりだ。
ところで…
「この『スタンダードツインご宿泊無料券』、もらっていく?」
例の生花の横に置いてあって、ふたりともずっと気になっていたが、手を出さなかった。
「なんだろうな、ここに泊まると変なプライドが出てくるな」
「あたしも。あの客持って行ったぞ!って思われそう」
翌日昼のチェックアウトまで議論した結果、しっかりこれを持ち帰ったのだった。
END
[一覧へ]
[TOP]