スウィートネイビーポップ
エレンがテーブルに向かって何か書き物をしていたような覚えがハリードにはあった。
朝方に立ち寄ったベーカリーで、昼過ぎにパンが焼き上がる時間を聞いてきたという彼女は、どたばたと宿を出て行ったところだ。
まるで取り残されたかのような、普段から使っている小さなメモ帳と、無造作に置かれた羽根ペン、藍色のインクの小瓶。
近寄ってみると“13:30”という時間の横に、毛が3本生えたイモムシのような絵が…。
数秒間、真面目に何の絵かを考えたハリードは、パンではないか?という結論に辿り着き、ひとりで笑いをこらえた。
つまり、3本の毛に見えたものは焼きたてを表現するための水蒸気のつもりのはずだ。
「………、くっ…」
猛烈にこのメモ帳への興味が湧いてしまった。いや…
日記をつける習慣はないはずだから、本当にこれはメモをとるだけのもの。あまり期待をしすぎてはなるまい。
などと前置きをしつつ、しっかり椅子についた。数ページめくると…
18:00 6番通り2番地
リンゴ おやつ せっけん
数日前、夕食の待ち合わせの場所とした地点だったろうか。間違って1番地に立っていたのを叱られた想い出が蘇る。
また、リンゴとおやつは別扱いであることを知る。
リンゴらしき絵の隣には、円形と楕円形…はて、これは?
「うーん」
おやつのクッキーと、石鹸。といったところか。
メモ帳は染料で色をつけた紙でも、図柄を印刷した紙でもない、無地のもの。文字は藍色のインク一色で、走り書き。
そのあたりはまさにエレンらしいと思うが、小さな絵を描き添える一面があったとは。
リンゴ 革袋 砂糖
リンゴらしき絵の隣に、革袋のような絵。
更にその隣には、無数の点が…。
まさかこれは砂糖?
「………」
ハリードはひとりで声を殺して笑った。
著名な画家ならいざ知らず、メモに添える程度の絵なら“sugar”と書かれたビンか、あるいはスプーンに掬った様子を描くものではないのだろうか。
塩だったらエレンは一体どう描くつもりだろう?胡椒だったら?
「はぁ…」
目尻に涙が溜まるほど笑って、ひと呼吸。
このメモ帳を使い切ったら捨ててしまうのが惜しい。譲り受けようかと真面目に考えだした。
22:00 パブに行く
パブに行く、という一文の後ろに描かれた二つの絵。
まず一つ目は、酒の入ったタンブラーだろう。
その右隣は、人の顔だ。
「まさか…」
目つきが悪く、長い髪を束ねている様子からして…
「ぶふっ」
ハリードは酒飲みである。エレンの中で、パブ=酒=ハリード という連想がなされているようだ(?)
「…く…、いてて…」
もうだめだ、許してくれ、と神に祈るほど笑った。
ハリードはさんざん笑って、笑い疲れたので、ひとまず温かいグリーンティーを淹れて休憩。
顔の筋肉が痛いという感覚は果たして何年ぶりだろうか。
「ふー…」
ぱらぱらとページをめくっていく。そろそろ奇妙な絵には慣れてきてしまった。…と思っていると。
←景色のきれいなところ!
「出た…」
地名が書かれていることからして、これは地図だ。
しかし縮尺も方角も分からなければ、訪れた日付すら書かれていないのだから、どこなのかはもはやエレン本人にも分かるまい。
「パブあたりで聞いて書き留めたんだろうな…」
同じテーブルに置いてあった本物の地図を広げた。奇跡的に一致しないかと眺めてみる。
ところがエレンの描いた地図は、ふにゃふにゃと線を引いてあるがどちらが陸地でどちらが海なのかも不明だ。
「…分からん」
この場所を突き止めてもう一度連れて行ってやろうかというハリードの優しさは、地図に迷い込んでしまった。
次からは『景色のきれいなところ』に至るまでに乗った船、通った街、歩いた道を文字にしておくよう勧めてみよう。
カップ
ナイフ、フォーク
ケーキ
洋服 ×
スカーフ
アクセサリー ×
新たなパターン。買い物リストぽくはあるが、品揃えが妙だ。
「……?」
バツ印は何を意味するのだろう?
それから、隅に描かれた、米俵に矢を3本突き刺したような絵は一体?
ハリードはしばらく悩んだが、グリーンティーを飲み干したころ、ようやく回答を導き出した。
これは、誕生日プレゼントの候補だ。
米俵に矢を3本突き刺してあるのでなく、ロウソクを立てたバースデーケーキだ…。
「…くくく…」
自分の誕生日、滞在していた街でさんざん探し回ったプレゼントを贈ってくれたことがあった。
洋服は、サイズが分からなかったのだろう。アクセサリーは…確かに難しい。
思い悩む姿を想像してみる。
そのエレンはそろそろ焼きたてのパンを抱えて帰ってくるころか、と気にしながらも、更にページをめくる。
落書きが現れた。
これもあまり上手くはないがすぐに分かった。曲刀だ。ハリードが子供の頃から手にしている武器である。
何を思って描いたのだろう。あのエレンのことだから、ただ単に暇つぶしか…。
羽根ペンをとり、藍色のインクに浸した。
曲刀の隣に、エレンの持つ斧の絵を描いてみた。
「ふむ。あいつよりは上手いな」
それにしても、羽根ペンの先端はかなり短くなり、筆記に少しばかり難儀する。
新しいものを買ってやるか…と考えたところで、扉の向こうから、靴音が聴こえてきた。
「ただいま!」
扉が開いた途端に、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
エレンが抱える紙袋から顔を出すバゲット。
温かいうちに…ということで走ってきたらしく、前髪が分かれていた。
「遅かったな」
「すっごく並んでたの」
テーブルに紙袋を置いたエレンは、留守番のハリードが羽根ペンの先端を拭っているのを目撃。
「お絵かきしてたの?」
「ああ」
インクの蓋を閉めて席を立ったハリードが、ティーカップや皿を取り出すのを確認したエレンは、嬉しそうな顔で席についた。
本当は“イモムシのような絵(パン)”を思い出してしまい、笑いを噛み殺すための行動だったということなどつゆ知らず…。
夜になり、エレンは自分の寝室へ。メモ帳を手に取った。
あの後は焼きたての美味しいパンに夢中ですっかり忘れていたが、ハリードが何やら描いていたようだったから。
最初のページから、絵が描かれたところで止まりながらぱらぱらとめくる。
「あ。これだ」
真ん中に曲刀を描いたページ。右側の余白に斧が描いてあった。
「あたしのほうが上手いわね」
あの大きな手でちまちま描いたかと思うとおかしくて、頬が緩む。
少し眺めてから、このページだけ千切った。地図などを挟んでおくファイルの中へ仕舞う。
そんなことをしてしまったのが何だか気恥ずかしく、取り繕うように続きのページから見ていくと…
14:00 道具屋
最新のページに書き込まれた予定。ハリードの字だ。
横には羽根ペンの絵が。
「もう、勝手なことして…」
先端が潰れるたびに削って使う羽根ペン。確かにずいぶんと短くはなったが…。
「ハリードの手で持つから、短く感じただけじゃない」
大雑把で不器用な人だけれど、たまにこんなことを仕掛けてくれる。
エレンはこのページをサイドテーブルに開いておいて、ベッドに潜り込んだ。
END
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