その手におちて

『寝ても醒めても』

と、いう、歌劇か小説かの一節を、ハリードが思い浮かべる。
読んで字のごとく彼はソファに寝そべって微睡んでいるところだが。
想う人がいる。
「ただいま!」
寝ても醒めても、想っている人。



「…あ、寝てるの?」
静かに宿の客室の戸を閉める音、忍び足で鳴るブーツの音。
「イテッ」
何もないはずの床でどうやってつまずくのか。笑いをかみ殺しつつも、肩を揺らすのを抑えきれないハリードである。
「よく寝てるみたいねっ」
「もうじき目覚めるから待ってくれ」
「その様子じゃ起きないわね!」
エレンが持ち帰ったのは太陽の匂い。パンを買ってきたようで、香ばしい匂いも交じる。
傭兵稼業のふたりだが、午前中に仕事を探し回ってもめぼしいものにめぐり会えず、街を出る日までは羽を伸ばそうということになっていた。
「本当に寝てたんでしょ?静かにするわ」
「お前が怒鳴っている最中にでも眠りにつける術は身につけたぜ」
「ひとこと多いの!」

こんな彼女をいつか、甘い囁きに溶かし込んで、ひと晩の夢をみたい…
誰かに奪われてしまう前に。ずっとそばに置いて、いつか。
願っているはずでも、歯止めをかけてしまうのもまた自分自身で、なんだか気が遠い。
いつまでこうしていられるだろう。
いつまで、こうしてそばにいてくれるだろう。

様々に巡らせる思考を心地よい意識の混濁に紛らわせ、これに任せて体の力を抜いた。
「…ハリード」
睡魔につかまって返事は出なかったが、頬だけ彼女のほうへ向けた。
「怒鳴ってじゃましたりしないから、ここにいてもいい?」
などとお願いをしておいて許諾を得る前に彼女はブーツを脱いで、ソファの下に敷いてある絨毯の上へ座り込む。
なにやら照れくさそうに視線をかわすしぐさ。
追い返す理由はなくなった。
「あんたが寝込んだのを見計らって、名刀カムシーンを持ち出して売りさばくつもりなの」
「色仕掛けのほうが効果は高いぜ。どうだ?」
「バカ!」
ここへきて、彼女にかまいたい、そっと触れてみたい、
具体的な欲望が指先に湧くのだが、窓から注ぐ暖かな陽射しに浄化され、やがて瞼がふさがれた。





























夢を見た。
そのわりにぐっすりと眠ったあとに似た体の重さを感じ、ハリードはしばらく、覚醒の一歩手前でとどまり、瞼の裏を眺めた。
「───」
夢の、エンディングだけが未だ記憶に残っている。後味は悪い。

「エレン」

夢の中でもそんなふうに、力なく名を呼んでいた。
「おはよう。ぐっすり寝てたわね」
笑顔を視覚でとらえても、ああ、まだ、夢とうつつをだぶらせている。
ほんのわずかな夕陽の色だけで、視界は眩む。
「…手を、貸してくれ」
「?」
「寝起きは体温が下がって、寒い」
実際、男の大きな手は冷えて、エレンはこれを両手で包み込んで顔色をうかがった。
「…そんなに、気温は低くないのにね。ブランケットを持ってくるわ」
「お前で充分」
「あたしの手は湯たんぽじゃないのよ」
云いながら喉元に手の甲があてがわれる。かいがいしく看病していただく妄想に囚われるものの。
「大丈夫そうね」
冷えているのは手先足先だけとばれてしまった。
手はまだ、離さないでいて欲しくて、一番冷えている指先を彼女の皮膚につけて、アピールをしておく。

「お前が迷子になる夢だったんだ」
「捜してくれた?」
やさしい腕が、大切そうにエレンの背中を抱える。
「…どうやら、何の手がかりもなく、俺は途方に暮れていたようだ」
一緒に眠っていたわけでもなさそうな彼女が、なぜここに居座ったのか、それは今のところ解らない。
「あたしが本当にカムシーンを盗んで出ていった夢を見たわけね」


軍師として仕えていた国の王宮が夜襲に遭い、彷徨い捜した、愛していた人の居場所には、血痕だけしか見つけ出せなかった。
そんな過去の記憶が勝手に、血に塗れてぴくりとも動かないエレンの姿を創り上げてしまったのだろう。


「…正夢にならないよう、願いたい」
寝ても醒めても…、
いかにも詩的な表現だが、寝ている間はコントロールがきかないから、遠慮しておきたい。
大切な人を失う幻覚をみて動揺するような、そんなことでは。
「あたしのこと呼んだから、びっくりしちゃった」
「………」
当然その寝言は記憶にないが、苦悶の表情で発したのだろうというのは自分で想像がつく。
「俺の大事な大事なカムシーンを盗み出されたからな」
「本当にその夢?」
うまく誤魔化せたか、と安堵するも、血の気が引いたまま戻らず、軽い眩暈がした。
一瞬、体の力が抜けて、はっとした拍子に、彼女の手を強く握った。
「…寝顔、見たかったの。でも、あたしがいたせいで悪夢を見せちゃって、ごめんなさい」
いつまでこうしていられるだろう。
いつまで、こうしてそばにいてくれるだろう。


「あたしはここにいるから、安心して」



END

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