雪華解く

ハリードが目に留めたのは、エレンの黒いニット手袋だった。
体の芯から冷えるような季節、ましてこの北方地帯でなら当たり前に身に着ける防寒具だが、ハリードには違和感があった。
「なによ」
肩ごしの視線を振り返ったエレン。
「いや…」
あいまいな表情と返事、それでエレンはピンときた。
彼が気にしている手袋を口許にもってきて、わざとらしく、温かい息を吐きかける仕種。
「気になるなら訊いていいのよ」
今晩あたり雪になると、天候を読む学者が云っていた。
実際、水分を溜め込んで重そうな雲が空を覆う。
「お前が黒を選ぶのは俺の想定外なんだ」
「ふふっ」

前を向き直ったエレンが笑う。
白いマフラー。
ブルーグリーンのシュシュ。
「雪の結晶が見られるの。近づいたら結晶の形が分かるのよ。黒い色の上だと一番見やすいの」
砂漠地帯の生まれで降雪現象を知らずに育ったためか、ハリードは短い解説にも耳を奪われていた。
「肉眼で分かるものなのか」
「そうよ。知らなかった?」
てっきり、例の天候を読む学者あたりが、特殊なレンズで拡大して見るものだと考えていた大人の男。
そうだったか、初耳だ、と顔に書いてあるハリードが可笑しくて、エレンはまた笑った。
「でも、丸い粒だとだめよ。ころころして、結晶の形をしてないわ」
「ほう」
「あとは、ヒョウが降ってきたらぶつかって痛いから帰らなくちゃ」
「それは俺にでも分かる」
砂漠地帯に在った故郷を失ってから世を流れる身となり、北の寒冷地にも幾度か足を伸ばしている。
雪が降るのを初めて目撃した時はそれなりに興味を引かれたが、寒さと不自由さに負けた記憶しかない。
「小さい頃にも黒い手袋を持ってたの。今日、それを思い出したから」
このエレンが田舎の村で雪にまみれて遊びまわる光景、ありありと浮かぶものだ。
「でも、そういえばそうよね。砂漠では雪なんて降らないものね」
「砂漠でいうところの砂嵐だな」
「そうかしら。確かに、黒い服を着てたら砂だらけでみっともないことになりそうだけど」
「暑さのせいで黒い衣裳は滅多に売られていなかったが、たまにいたぜ。悲惨な状態になってる優男が」
「あははっ!」
街は、この季節の日没の早さに雲の厚さが拍車をかけ、あっという間に闇におちた。
二人が宿の一階で食事を済ませたころ、雪が降りだしたと聞いて外に出てみるものの、エレンの黒い手袋には丸い粒が跳ねて転がる。

客室に戻って暖炉に火を入れた。このまま毛布に包まって眠れば気持ちが良さそうだ、と想像を働かせつつ、ハリードは窓の外に目をやる。
どうやら、エレンに付き合ってやる気勢は満々。
「ねえ、あたしよりも楽しみにしてるでしょ」
「いーや」
「うそだわ」
正直、雪の結晶を見られると知ったら見てみたい。…などという年甲斐もない欲求、嘘ではない。
温度差で曇ってしまう窓を拭うのはハリード。
「せっかく買った手袋だろ」
「安物よ」
ニットで平坦に編んだだけの手袋。雪の結晶を観察するほか、軽作業用にも適しそうである。
エレンはテーブル上に軍手…いや、手袋を放っておいて、買い物袋をごそごそすると小箱を取り出した。
小箱の中には白い薄紙の包みと、それを縛ってある金色のリボン。ホワイトチョコレートでコーティングしたクッキーが出てきた。
「こっちは高価そうだ」
「ハリードは値段のことばっかりなんだから!」
火にかけておいたケトルのもとへ向かうエレンの背中。何やらハリードは不敵な笑みである。

ホワイトチョコにはレモンティーが合うでしょ!?と、半ば脅されながらのティータイム。
ハリードは甘いものを好んで口にすることはないが嫌いなわけでもないので、エレンと一緒になってから甘いものを食べることが増えたらしい。
「さてと」
レモンティーを飲み干してカップを置くやいなや、席を立つエレン。窓を開けて身を乗り出した。
先ほどまでは大雪の状態だったのが大分落ち着いて、小粒の雪が、空気の抵抗を受けて不規則に舞っている。
「ちょうどよかったわ!行かなくちゃ」
慌ただしくテーブルへ戻って云った。部屋の暖かさで、頬をうっすら赤くしたエレンの笑顔。
一緒になって身支度に入るハリードに、“父性”などという単語がつきまとう。子をもった経験はないが生物として遺伝子に組み込まれているのだろうだから、納得はしておく。
「娘に付き添う気分だ」
「父さんは本物が一人で充分!」
実の父親よりも大きな背中をぐいぐい押しながら、客室を後にした。




雪の夜となれば寒いに決まっているし、他に人影があるわけもないし、ぼんやり浮かぶ街灯がかろうじて、二つの人影を認識させた。
「さむ〜い〜…」
どんな姿勢でエレンの手袋を観察しようか悩んでいると、直前まで頬を赤くしていたエレンが今度は、鼻を赤くしているのが目に留まる。
キャメル色のコートの背中にまわり、胴体を抱えるようにして密着した。
「うまく見られそうか?」
「…ハリード、それはあんたがうまく見るための体勢なの?」
「そうだろうな」
見やすい上、互いに寒さしのぎになるのだから一石二鳥。エレンの白いマフラーに口許を埋める。
「こんな時間に何してるのかって怪しまれちゃうわ」
腕の中、気恥ずかしそうに肩をすくめたエレン。一石三鳥くらいか、と考えるハリードである。


すぐにでも止んでしまいそうな雪。
思うように手袋の上には降りてきてくれず、息を殺した。
「…あ、きた!」
ひと粒、ふた粒。
そこから続けざまに、小さな小さな雪の粒が黒い手袋に吸いつきだす。
結晶はほんのわずかな間だけ留まった後、ふっと消えてしまう。
たったそれだけの繰り返しを、ふたりでじっと見つめて、数分間。


積雪が生む静寂を、細枝のしずり雪が微かに揺らした。
ますます鼻を赤くしたエレンが振り向く。
「ハリード、見た?」
「しっかりと」
「ちゃんと六角形に見えるでしょ」
「ああ。欠けたものもあった」
安物だという黒い手袋は保温効果に劣るらしく、息を吐きかけてこすり合わせる。
それでもエレンは満足そうに笑った。
ハリードがその両手をとると、雪を浴びせていたわけだから手袋ごと冷えて、湿り気を帯びていた。
「まだ見たいの?」
「いや…」
ハリードは、自分のコートのポケットに、その両手を突っ込ませた。
今度はエレンの方が彼のマフラーに顔を埋める恰好に。
「手はしばらく温めておいて、観察の続きはこっちでな」
「…続き?」
例の不敵な笑みとやらを、エレンに向けた。
「お前、俺のマフラーが黒だということを全く気に留めていないんだな」
目をぱちくりさせて、顔を埋めるニットの感触の、その色を確かめる。
「…あ!」
「残念だ。俺も身なりを気にしているつもりだが、肝心のお前に見ていただけていないとは」
「………」
返す言葉のないエレン。『おっさんの持ち物なんて誰も気にしないわよっ!』…というのを表情に滲ませるのが精一杯だ。
もちろん見ていないわけではない。暗色をメインに、差し色は朱か赤茶を選ぶことの多い彼。
ブーツの紐が赤、ベルトが赤茶、荷袋に結びつけたスカーフが赤系の柄物…。以上、差し色だけが印象に残ってしまっているわけ。
そんな云い訳はみっともない気がして、口にせず押し込めておく。
「…もう、あたしみたいな小娘をいじめて何が楽しいのかしら」
「俺の一番の楽しみだろ」
飾り編みのマフラーにはうまく雪の粒が引っかかって、よく見えた。
けれどポケットの中でも手は握られたまま、こんな体勢では身じろぎも出来ない。
「もう戻るか?」
優しい声のほうを見上げて、赤いピアスを目に留める。
好きな色、を訊ねてみたくなったのだけれど、それではまるで、好きな人のことを何でも知りたがる子供のようで、
ばかにされれば悔しいから、別の機会を待つことにした。

「…手袋、濡れてるから、外すわ」
黒い手袋を自分のポケットへ仕舞って、両手は再び彼のポケットへ。
包み込むように握り締めてくれる温度に、瞼を閉じた。
「…もう少し、このまま…」
エレンの前髪にキスが落ちる。

ふたりの白い息がまざりあった。





ぽつり、ぽつりと足跡が二人分。
「ねえ、あたしが昨日まではめてた手袋の色覚えてる?」
「んー?青」
「違う!それじゃ、このコートの下のセーターの色は?」
「アイボリー」
「違う!!さっきまで部屋の中でその恰好でいたのよ!」
偉そうに抜かしていた男がやっぱりこんな調子で、先ほどまでの甘い雰囲気は雪の結晶の如くに消えていた。
「俺は黒という色について云っただけだからな。全身の色合いを覚えているかどうかの話ではなくてだな」
こんな説明(弁解)は、右耳から左耳へ。
なんだかんだあってエレンは、黒い手袋はもう使うまいと心に決めたのである。



END

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