SANDED Blanc
「弓術…きゅうじゅつ」
エレンはなんと、ツヴァイクの図書館にいた。読書も、手紙や日記を書くこともしないエレンが。
「弓術…あった。どれが分かりやすいかしら…」
先日とある騎兵隊の傭兵募集の看板に釣られて行ってみたが、弓兵部隊にしか空きがないと云われてしまった。
エレンと旅の相棒ハリードは、ふたり揃って弓矢には手をつけておらず、退散。
それが昨日のことである。
「お前、あまり慣れないことをするものじゃないぞ」
「才能あるかも知れないじゃないの!」
「しーっ」
「あたしの妹が得意なんだから…ブツブツ」
本格的に弓術を学ぼうというより、どんなものか知っておこう、程度の思いつきだった。
「距離、風向、矢の軌道」
「そうね、大体そんなことが書いてあるわ。
…ナニナニ?遠き異世界にはヨイチという弓の名手がいて、揺れる舟に取り付けた扇を見事射抜いたという伝説が残されている だって!」
「ふむ…揺れる的か。頭痛がしそうだ」
ふたりは接近戦を得意とする。遠距離攻撃となるとまったく違う分野の能力を必要とするが…。
「ま、戦でなら、射れば当たるぐらいの状況にはなるだろうけどな」
「そうね…」
ぱたん、と本を閉じる音。付き添いで来たハリードの予想通り、エレンはとっとと本を本棚へ戻していた。
しかし、帰ろうとかお腹すいたとか云うものだと思っていたら、まだ本棚に視線を這わせている。
ハリードが物珍しそうにそれを観察していた。
エレンは確かに、そろそろ昼食にしたいなぁ、と頭の中で考えていた。
しかし滅多には来ない図書館という施設で、他に自分の興味をひく本があれば読んでみようかなぁ、という考えの方が先立っている。
「すごい、大きくて古い本…」
割に新しそうな本の並ぶ中、少し浮いて見えた分厚い本。
『ゲッシア史』
という箔押しの文字が、随分と掠れていて、エレンは顔を近づけてみて初めてこれを認識できた。
表紙は布張り。オリーブグリーン色…のようだが、表面が毛羽立って埃を噛んでおり、もっと淡い色調。
「…お、久々に見たな。200年近く前のものだぜ」
「へえ…」
十数年前、ゲッシア王朝は、内部に興った宗教団体の奇襲に敗れ、滅亡させられた。
600余年の歴史の途絶えた瞬間を、その場所で見届けたハリード。
彼はその歴史をまた繋ごうと決意したそうだが、実現は困難で、やがてその想いを断った…。
“興味”などという軽薄なものと比べてみれば、エレンの手は躊躇う。
「読んでみたいんだろ?字は大きめだから安心しろ」
1.5秒ほどの間にエレンが怒涛の勢いで頭に巡らせた思考を、全部見透かして、ハリードが云った。
躊躇っていた手が本を取る。
大切そうに胸に抱える仕種を、ハリードは柔らかな眼差しで見つめた。
「分厚いし、借りて帰るほうがいいかしら」
「3階で軽食が出るだろ。食事ついでにざっと読んで、借りるかどうか決めればいい」
「でもあたし、読んでる姿を隣でじっと見ていられるのは気まずいわ」
「わかったわかった。俺も1冊持って行く」
その1冊というのは武術とか軍事に関するものかと思いきや、3階でハリードが手に取ったのは経済の本。
金銭に関してだけはきっちりしている男だからいいのか…と、エレンはその後姿に妙な納得をさせられる。
3階のカフェは、まるで城のバルコニーのようなつくりで、眺めもいい。
椅子にはサイドテーブルが備わっている。本を読むための配慮だろう。
エレンがオーダーしたのはタンブラーたっぷりのアイスカフェオレと、サンドイッチ、フルーツポンチ。
ハリードの方はコーヒーとトースト、サラダのセット。
ここツヴァイクはビールが有名だが、さすがにランチタイムのカフェでは酒や肉はほとんど出ない。
「お前、それでは足りんだろ」
「図書館の中にあるカフェで優雅に本を読みながらの昼食なのよ!」
「しーっ」
どちらかというと『定食屋でライス大盛り』の方が似合うふたりも、空気を読んだ形となった。
それから。
ハリードは経済の本が小ぶりなお陰で、飲み食いをしながら読んでいる。
一方エレンは、始めのうちは大きなハードカバーの本をせわしく動かしていたものの、途中で諦めてサンドイッチを完食。
ストローでアイスカフェオレを飲みながら、いよいよ表紙を開いた。
とびらに描かれているのは『アル・アワド王の墓碑の写生画』。
「………」
墓碑の中央にはめ込まれた曲刀は、まさに…。
エレンはハリードの腰に提げられたものと見比べた。
「?」
こちらの視線に気づいて目が合った男は、こんな立派な書籍に描かれているのと同じものを所持している。
トーストをかじっているが。
「あ、ほら、カスがこぼれてるわよ」
「おう」
「本を汚したら買い取りよ」
「焼きすぎなんだよ。見てみろこの色。キツネ色よりタヌキ色だ」
威厳はあまり感じられない。そんなところも魅力のひとつと云えるのだけれども。
気を取り直してエレンは、目次のページを眺めた。アル・アワド王の経歴、国の興った経緯、発展…
そういえばハリードは、このアル・アワド王の末裔でもあるのだった。
「ハリードって、すごい人なのにね」
「『なのに』っていうのは引っかかるな」
「いい意味で云ってるの」
「そうか。ならいい」
魔王がアビスへと通ずるゲートを開かせ、モンスター、果ては魔貴族までをも呼び寄せた。
やがてピドナに城を構えた魔王が圧政を開始。
人々は皆、奴隷のように働いた。途方もない額の税金を納められる者だけが、一定の生活水準を保てるからだ。
中には魔王を討ち破ろうと立ち上がる者達もいたが、その都度、魔王配下の兵が動員される。
兵と云っても、魔王についた人間というのが半数にも満たず、あとの残りはモンスターが構成していたという。
世界は戦乱期を迎えた。
アル・アワドは砂漠地帯の一族に生まれた戦士。
勇ましい男で、かつ人望もあり、彼が打倒・魔王軍の声をあげれば、たちまち人が集まった。
武力にて世界を征服し続ける魔王が、ナジュ砂漠へと進軍してきた。
アル・アワドの率いた軍は、これを幾度も追い返す。
結果、魔王は、ナジュ砂漠を統治下に置くことを断念したのだ。
アル・アワドはゲッシア朝ナジュ王国を興した。砂漠と一族を護るためにだ。
それまで家族単位での暮らしをしていた砂漠の人々は、彼のもとへ。
国という大きな単位が生まれることで、改めて編隊したゲッシア軍の強さも確固たるものとなった。
“ナジュの砂は風にせせらぎ、戦を経ても美しい”
戦で砂地が荒らされても、風が吹けば表面がならされて、いつでも美しい流線の地形を保っている…
また、魔王軍の度重なる侵攻をすべて喰い止めたという意味も含めているとされる、アル・アワドの言葉だ。
「ナジュの砂は風にせせらぎ、目に入って痛い」
「なにそれ」
たった今読んだアル・アワド王の名言がハリード流に改変されてしまった。
「もしかして、そのページだって分かったの?」
「そのあたりだけ、よく読んだんだ」
歴史に名を遺す祖先。そんな人物が手にしていた曲刀カムシーンに焦がれ続けた彼の、昔を懐かしむような横顔。
「カムシーンのところは読んだか?」
「ううん。まだ」
「じゃあ俺がばらしてやる」
ハリードは、遠くの風…砂漠の砂風の方角を視界に入れ、ひとつ深く息を吸った。
タンブラーを持ち上げると、カフェオレの表面に氷の融けた水の層が出来ている。エレンはこれをかき混ぜながら黙った。
「アル・アワドは、齢四十の時に曲刀カムシーンを封じた。そして、これは戦の象徴でなく、平穏の象徴だと云った。
試練に耐えこれを再び手にする者は、ナジュの国が平穏で在り続けるために、これを振るうのだ、と」
ただ単に、勇者の携えた名剣、というだけではない品物。
エレンは息を殺していた。
「俺がこいつを手にしたのは、ゲッシアが滅んだ後だ。この伝承をどう解釈するか、今でも、悩むんだ」
カフェオレの濃さは充分で、氷が融けきっていても、エレンの舌に広がるコーヒーの苦味とシロップの甘み。
これで少し緊張が解けて、隣の男に笑顔を見せることができた。
「国の復興のため戦を起こすことが善か悪か。お前ならどうする?」
「難しい質問ね」
「あるいはまったくかけ離れた場所で村でも興すか」
「それ、いいじゃない」
ハリードも笑って、コーヒーカップをとり、ひと口。
その彼がよく読んだというゲッシア史の本の重さを、伝承の重さのように膝に感じながら、エレンはまともに彼に向き合った。
「きっと、ハリードの出した答えが、カムシーンの継承者の辿る道になるわ」
「………」
カムシーンを手にするための“試練”の過酷さは、生き延びていられたことが不思議なほどの傷を負った姿として、エレンの眼にも映ったのだ。
彼の選択であれば…と、本当にそう考えているから…
「ちょっと、なにがおかしいの?」
空にしたカップをソーサーへ置くと、ハリードはにやにやと笑うのを噛み殺しきれないで、顔をそむける。
エレンは頬を膨らませて身を乗り出した。
「真面目に答えてあげてるのにっ!」
「悪い、それは分かってる」
サイドテーブルへ置いてあった経済の本を取って、席を立った。
「カムシーン継承者の辿る道が、惚れた女を護るということでは、締まりがない」
きょとんとして見上げるエレンを気にして構おうというそぶりはない。
それどころかろくに顔を見ず、背中を向けて、タヌキ色のトーストも食べかけのまま、テーブルを離れる。
「別の本を探してくる」
カフェはカフェとはいえ図書館内にあるのだから、とても静かだった。
「………」
エレンがフルーツポンチの器を持って、フォークで角切りの白桃を刺そうとしてカチャカチャ鳴らす音が響いた。
こんなにも動揺してしまうものか、と焦りながら、ようやくフォークに刺せたのは黄桃だった。さっさと口に放り込む。
(出した答えって…、それなの?)
照れ隠しをするように一気にフルーツポンチを完食すると、エレンはゲッシア史の本に顔を埋めるほど近づいて、
カムシーンのところは飛ばして、読み進めるのだった。
END
[一覧へ]
[TOP]