宿に戻ると、エレンの姿はなかった。
室内を染める朱い夕焼けの色が騒々しく、拍動がまだ落ち着かない。
手が震えている。
やがて聞こえてきた、扉の向こうの階段を上ってくる靴音。
「遅かったな」
扉を開いたばかりのエレンに早速声をかけた。
「まだ夕方よ?」
「捜しに出るところだったぜ」
「歩き回って街外れに出たら、見知らぬ農家のおばさんと話し込んじゃったのよ」
先程まで身を沈めていた考えを、無かったものにしてくれそうな、エレンの笑顔。
「で、ついでに畑を耕して来たのか」
「それくらいしそうだったわね」
彼女の存在に、随分と頼っていたのだった。
死の淵に近いところを歩いて生きてきたような自分のもとに、呑気な毎日がやってきた。
そこへ後戻りができたなら。
決意が揺らいだ。
その夜エレンは、眠れずにいた。
宿で合流した後、夕食をとりに出るとハリードは酒を飲まず、話をすれば聞き手に回っていた。
酒を飲まない夜もあるし、話の間じゅう黙っていたわけでもないから、特別、おかしな様子であったと云い切れはしないのだが。
なにかがちくちくと胸を刺す錯覚に苛まれていた。
ホットミルクでも飲もうかと、ベッドから出て、テーブルへ…
すると、ハリードの姿を見つけて、立ち尽くした。
「…エレン」
小さなテーブルランプの明かりに照らされている彼が、微笑んだ。
「俺が夜空を見上げていたら奇妙か?」
笑顔を作りながらも、込み上げてくる切なさ。
それを抱いて、彼の隣の椅子へ腰を下ろした。
「眠れなくて」
「そうか」
満月が少し欠けた形の、白い光。
ランプに掻き消され、部屋にまでは届いていない。
そんな夜空から目を離せずに…隣を見られずにいるエレンだが、ハリードの腕が背中に回され、下ろした髪を撫でると、ようやく顔を見合わせた。
「エレン、…夜が明けたら、お前に話がある」
静かな一言が、胸を突く。
抱えていた不安が形になるのを、少しずつ、脳に理解させる。
「分かったわ」
彼は少し、不器用なのだ。
黙っていても滲み出て、こちらに伝わってしまう。
しょうがない男だ、と思う。
エレンがハリードの肩に体を預けた。背中を抱いていた腕がそれに応え、引き寄せる。
こんなに接近して、普段ならエレンが耳まで赤くしてしまいそうなところだけれど。
今のふたりは、何かを、惜しむように。
からだの距離を無くしたがっている。
「ハリード…」
「ん?」
「…歌を聴かせてよ。あたし、何だかんだ云ってまだ聴いてないわ」
笑った彼の、腕の温もり。
「そうだったな。眠れないなら、子守歌がいいか?」
「なんでも…。ハリードの、得意なやつ」
温もりに抱かれながらも、冷たさに似た感覚を肌に感じるのは、どうしてなのだろう。
「ゲッシアの、古い歌がある。お前が退屈して眠れそうなのが」
「ふふっ」
とても、優しい詞が並べられた、優しい歌だった。
砂漠の砂粒を星に、砂嵐を黄金のオーロラにそれぞれ例えて、
太陽は、大きな宝石の首飾りに例えて。
ハマール湖には、曲刀を携えた月の女神が棲んでいる、と…
スロウなリズムに合わせて、ハリードの手が、子供を寝かしつける時のように、エレンの肩を叩く。
ランプオイルが尽き、炎が消えた。
月光が注ぐ。
どうかこのまま、夜明けが来ないままで、と、ふたりが願うのに、
月の位置は西の方角へ、傾いて行ってしまう。
エレンは眠気を装って、ハリードの腕に頬をつけた。
涙を隠そうと、瞼を閉じた。
月に成り代わり、太陽が街を照らす頃。
エレンの目覚めはすこぶる悪く、着替えを始める体が重い。髪を束ねるまでの気力すら保たない。
こんなことではいけないと思いながら、結局櫛を入れない髪を下ろしたまま、ベッドを離れる。
昨晩のように、彼が居た。
宿を発つ支度を済ませた格好で。
「エレン、突然ですまない。砂漠の方面に用事ができたんだ」
心の準備は、していたはずだ。
「俺の個人的な事情でな、お前を巻き込むわけにはいかない。どれほどの期間になるかも分からない」
笑顔で送り出してやれるように。
「だから、…ここでお別れだ」
彼との旅の道連れの関係を解消することは、受け止めなくてはならない。
それだけならばエレンは、自分を捻じ伏せ納得させるつもりでいた。
「お前の武術の腕も相当なものだ。一人旅をするにも充分だぞ」
しかし、エレンの直感に訴える、もっと別の何かがあった。
「…どこへ行くの?」
「ナジュ砂漠の、ずっと南だ」
問い質して真意を聞き出し、引き留めたい、それなのに。
「持ち金はちょうど半額ずつにしておいた」
「六割ぐらいくれないわけ?」
「ははっ」
「…宿の外まで、送るわ。ごめんなさい、髪の毛がぼさぼさだけど…」
口だけが勝手に彼と会話をする。
彼の事情に割って入ることは自分にはできないという理由で、あらゆる想いは封じ込められた。
薄曇りの空。
その下で、ハリードは自分の中に、後悔のような…迷いのような想いが、小さく生まれたような気がしていた。
何も云わず送り出そうとしてくれる優しさを、今は何より重く感じた。
振り返り、そのエレンを見る。
…今まで見たことのない、感情の読み取れない顔をしていて。
さすがに、笑顔は見せてもらえないか。
幾つか浮かんだ別れの言葉の代わりに、エレンを抱き竦めた。
寝癖のついた髪に、キスをする。
「元気でな…、エレン」
体を離しても、彼女は何も云わなかった。
何か、最後に言葉が欲しいと考えるのは、我儘だ。
エレンに笑顔を贈って、背を向けた。
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