その時、塞がれようとする意識に飛び込んだ、人影。
…幻覚かどうかの、判別すらつかないが…
疲れ切った体を横たえようとするのを止めて、顔を上げた。
「ハリード…」
名を呼ぶ、その声の主は、さんざん求め続けた。
「──エレン…?」
しかし、肉体は自らを支えていられず、傾こうとする。
「ハリードっ!」
駆け寄ったエレンが、懐へ潜り込むようにしてそれを抱え上げた。
すると、エレンの衣服に拡がる、じっとりと濡れた感触。
それは密着した彼の体からで、見る見るうちに、チュニックを鮮やかな紅い色に染め上げた。
色彩に乏しい砂漠地帯において、信じ難いほど、鮮やかな…。
「うそ…」
力なく砂の上へ垂れる腕、エレンに重くのしかかる体重。
彼の瞼が閉じられてゆくのが、涙で霞んだ。
「…ハリード、待って…お願い、お願い…」
震える手で左腕のバングルを外して、手斧の石突で思い切り叩いた。
石が砕け、バングルは真二つに。
そこからほとばしった光。
それは地平線へ落ちかけた陽光の中ですら眩く、エレンが顔を背けるほど。
「………!!!」
風が起こり、砂を巻き上げる。
ふたりの体の傷の、浅いものは跡形無く消えた。
柔らかな羽根のような感触がした光が散ると、バングルと石は、灰の如く粉々になり、砂漠の砂に紛れた。
鎧を外したエレンが、上体を抱いた。
ハリードは廟を出てからの出来事を充分には理解できず、思考を束ねることもままならない。
その胸に抱かれる温もりにだけ身を委ね、少しの間、安らぎに浸った。
砂漠の果てで、見た光。触れてくれる温もり。
遠方に目をやり、淡い紫色の空と砂地との境目に、太陽が姿を隠そうとする光景を、尊いものだと感じる。
次に五感を捉えるのは風の音。
そうして鮮明さを取り戻してゆく意識。
ぽとり、ぽとりと落ちてくる涙に気づき、手を伸ばした。
涙の粒を指先で拭うと、触覚までも満たされる。
「ごめんなさい」
「……?」
「勝手に追いかけてきて、ごめんなさい」
体に力が戻っているのが分かり、身を起こした。
抱きしめてくれる腕をそっとほどいて、今度は自分の胸の中にエレンを包み込む。
「エレン」
倒れ込む直前、面影に触れたいと無闇なことを願った。
それがどうして叶っているのだろう。
まだ、幻覚を見ているか、あるいは死後の幸福な夢か、という疑念は晴れてはいない。
別れを告げた日と同じように、髪に口づける。
「どうやってここまで来たんだ」
「ごめんなさい…」
腕の中で、こちらを見上げてくるエレンが、どうしようもないほど、愛しい。
いつまでも流れ落ちようとする涙を、何度でも拭ってやった。
「あたし、ハリードに逢いたかったの。お別れしたくなかったの」
願っていた以上の台詞に、高揚をおぼえると、肉体をきつく血が巡り、傷を疼かせる。
この感覚は、きっと、嘘偽りのない。
間近で見た瞳は澄んで、濡れた睫毛が瞬けば、どんなものよりも美しく見えた。
「もう、あたしを置いていかないで」
ハリードの返答は、言葉、という形にはされなかった。
「!」
エレンの唇に、衝動的なキスを。
砂混じりの感触。念のために表情を窺ってみると、あからさまに視線を逸らされた。
「…ずるい…」
そう呟くと胸に顔を埋めた。うぶな反応についつい、ハリードは笑みを零す。
「血の味しかしないな」
「あたしたちには、お似合いよ…」
アンデッドは陽の光を嫌うため廟からは出て来ず、また夕刻で気温が下がり始め、ひとまずは静かに過ごせる環境であることが、僅かな救いだ。
互いにここまでの疲労もあり、しばらくじっとしていたが、どちらからともなく体を離した。
「早く、戻らなくちゃ…」
例の道具では気休めにもならないような傷を、それぞれ抱えている。
「ここで待ってて。駱駝を連れてくるから」
エレンが瓦礫に繋いだ駱駝のもとへ向かうのを見送り、ハリードは砂に手をつき立ち上がろうとしたのだが…
視界が真黒く遮られ、平行感覚を失う。失った血液の量は半端でないと再認識する。
「ハリード!ひとりで動かないで」
慌てて戻ってきたエレン。荷物の中から真新しいローブを引っ張り出し、ハリードに着せ、前の紐を縛る。
フードを上げようとした手が、新の布地に滲む血を見て、止まる。
「…あたしが、ハリードを護るわ」
自分に向かってくるモンスターを振り払う程度ならできそうだ、と考えていた。
ところがエレンは、護るだなんて、頼もしいことを云ってくれる。
情けないとは思うが、これからの長い旅を連れ立っていくのなら、どこかでそのような事態にもなろう。
遠慮なく頼る気になり、エレンに笑いかけた。
「分かった。ここまで一人でやってきたお前の腕を信じよう」
「うん。まかせて」
エレンを前に駱駝にまたがり、廟を背にした。
振り返って見た建造物は、只の廃墟でしかなく、相変わらず血の臭いを漂わせる。
ここで得た感情、ここへ置いてゆく感情。
お別れをしたくないと云ってくれた人のそばにいなくてはならないと、思っていた。
ずっと、
赦されるのならば、ずっと。
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