この日の夕暮れは、エレンには遠くに見えていた。
故郷の村で毎日目にしてきたものと別物にすら思いながら、空の朱色が薄れて行くのを瞳に映していた。
ロアーヌを出て林道に入る。ほとんど隣接した位置にあるミュルスまでは歩いてすぐだ。
ところが、その距離で、気配…襲撃の意思…を感じ取った。
気配を消せない下等なモンスター、精々ゴブリン程度だろうか。
歩みは止めぬままで周囲に気を張り巡らせ、ふたり同じタイミングで呼気をひとつ短く散らした。
ハリードは曲刀に、エレンは手斧に手をかけた。
「!」
次の瞬間、刀とガーダーを構えたゴブリンが林から飛び出してくる。3体。
ハリードの曲刀があっという間に1体の胴を斬り払った。ゴブリンの刀が振るわれることすら許さぬ間合いだ。
一拍遅れて、エレンが2体目の刀をガードついでに回し蹴りで弾き落とし、勢いのまま手斧で叩き斬る。
そのエレンに背後から襲いかかった3体目は、既に手の空いていたハリードに喉を掻き斬られた。
鞘から抜かれてものの十数秒、刀身に付着した血を拭われた曲刀は、再び鞘に収まっていた。
モニカの護衛の最中にもエレンの目を奪った、彼の身のこなしと、太刀筋。
おそらく彼は武器をぶつけ合う経緯でなく『戦いを終わらせる』ことを視ている。
対象が向かってくることに対し受け身であったエレンは、次の一手にまで想像が及んでおらず、ほんの一瞬の、生命の危機を乗り越えていたことになる。
「やっぱり、あたしはまだまだね」
ハリードがいなければ…と思うと、苦笑が浮かぶ。
「筋はいいぞ」
「筋がよくても、今の腕前であたしひとりだったら死んでたわよ」
「まあな」
「最後までフォローしてよ!」
陽が落ちる頃、ミュルスの港へ。
北へ向かう客のために売られている防寒着を買い、ふたりは船へ乗り込んだ。
船の甲板で、海ではなくミュルスの港を見つめているエレン。
この地方を離れるのは生まれて初めてのことなのだ。
「エレン」
ふと隣へやって来たハリード。何か云いたげな雰囲気を隠さない。
ちょうど、船員が夜の灯りを近くにぶら下げに来たところで、やけに神妙そうな男の顔が照らし出される。
「実はだな、俺がユリアンをモニカ姫の護衛にと薦めたんだよ」
ずっと偉そうに振る舞ってきた男が、ばつが悪そうに話し始めた。
エレンは一体なにごとかという表情だ。
「…いや、要らぬ世話だったかと思ってな。お前たちにとっては大変な出来事だったろう」
真面目に打ち明けたハリードに対し、エレンは間を置いて、吹き出して笑った。
「なんだ!それを気にしてたわけ?」
「………」
「領主様に認められるなんてすごいことなんだから、いいのよ。さっきはあたしが勝手に腹を立ててただけよ」
ついこの前までは…ましてモニカ姫と出逢う直前にも、自分にデートの誘いを持ちかけてきていた男。
それがお姫様のもとへ行ってしまって、何だか面白くなかった…、それだけ。
サラと喧嘩になってしまったのもそうだ。いつも自分の後ろについてきて自分を頼っていたサラが、反発した。
それが許せなかった。
「あたしが…、受け容れられないあたしが悪いの」
20歳を迎え、村の成人の儀を済ませ、大人になったつもりでいたのに。
見知らぬ土地へ向かう船は、定刻通りに港を出る。見送る者はない。
例えば、広い世界を見て回りたいだとか、自分探しだとかの前向きな目的があれば、晴れやかな出航だったのかも知れないし、
無理矢理にでもそんな目的を作ってしまえば良いのかも知れないし…
不安と寂しさ、妹や仲間と笑顔で別れられなかった後悔。
マイナスの要素ばかりに感情を支配され、エレンはとても、船旅を楽しむような気にはなれないでいる。
辺りが暗くなるにつれ甲板から人がひとり、またひとりと消えてゆく。
ただ黒色が流れるだけの水面をじっと見つめていたエレンが気づいたころには、甲板には見張りの船員が2人いるだけだった。
肌寒さを自覚して肩を竦めてから、船内へ。
自分の客室を目指していると、通路にハリードの姿を見つけた。
「ハリード」
「なんだお前、もしかしてあのまま外にいたのか」
「うん…」
ただ何となく、人と話をしたくなって。男の顔を見上げる。
「悪いんだけど、あんたの部屋に行ってもいい?」
長距離航行をしない船内には、二段ベッドが置いてあるだけの簡素な客室が並ぶ。流石に男女では1室ずつを使うことになる。
「構わんが、お前には警戒心がないのか」
「ちゃんと相手を見てるわよ」
「この短期間で?」
「おっさんはこんな泥臭い小娘に興味ないでしょ。あたし、年上からは云い寄られたことないの」
彼女なりの根拠らしいが、ハリードはあまりピンと来てはいない。
扉を開いて先に部屋へ入れてやると、そのエレンは遠慮する様子もなくベッドに腰を下ろす。
テーブルも椅子もない客室だからベッドに座るほかないわけだが、ハリードはランプに火を入れると、扉のそばに立った。
「北へ行くって云ってたけど、具体的には目的地は決まってるの?」
「ランスにある聖王の墓でも見に行こうと思ってな」
「ランスか…」
話に聞いたことはあった。聖王が生まれた雪深い地で、今も聖王の子孫が住むという。
エレンにとってはずっと、地図上にしか存在しなかった場所だ。
「世界を見て回るのも悪くないぜ。途中で飽きたら帰ってくれても構わん」
旅慣れている男の言葉には余裕があって、羨ましく思えた。
ぐちゃぐちゃに絡まっている胸の中を少し解いて、その彼に投げかける。
「ハリード、あんたにとってあたしは子供?」
「ん?そうだなあ」
ハリードは微笑いながら少しだけ考えて、この質問と彼女の顔とを比べた。
「俺からすれば若いとは思うけどな。20だったな?お前くらいの年頃ならそんなものだろう」
それを聞いたエレンは黙って、気の抜けた表情をしていた。
ランプの炎のせいか、瞳が揺れているようにも見える。
「…サラとは喧嘩になっちゃったし、ユリアンのことはちゃんと送り出してあげられなかったし…
あたし、2人とも自分が世話をしてあげてるつもりでいたみたい。自分の思うようにならなかったら嫌なんだわ」
妹のサラを護ってやること。どこか抜けているユリアンを時に叱咤すること。
そうやって振る舞うからには、自分自身は武術の鍛練を惜しまず、人に助けを請うようなこともせず。
これを免罪符にすればまた、世話をするという名目でこの2人の上に立った。
離れ離れになってみると、嫌でもそういった関係性が形を現して、自分のしてきたことを思い知る。
「若いうちは無鉄砲で、根拠のない自信に満ちているものさ」
「………」
「お前が正しいと思ってやっていたのならそれでいい。あいつらも分かっているはずだ」
仲間内の出来事を無関係なこの男に相談して、もちろん返ってきたのは具体的な解決策ではない。
それでも今のエレンには救いで、“正しいと思って”続けてきた武術の鍛練で、何度も潰した掌の肉刺の痕を見下ろした。
腰を上げた。あまり頑丈でなさそうな扉のそばに立つハリードを見て、笑う。
「そこに立っててくれなくても、暴漢が扉を突き破ってきたらあたしが倒すわ」
「俺が真っ先にやられたら、お前を見て油断した暴漢があっけなく倒される。二段構えだ」
「よく云うわね!」
言葉を返しつつも、ハリードが扉を開いてくれたら、軽い足取りで部屋をあとに。
「ありがとう。おやすみなさい、ハリード」
「俺の夢でも見てよく寝ろよ」
「うなされて明日げっそり痩せてるわよ」
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