Schmelzendes Eis

グラスとアイスペールを冷蔵箱から持ち出し、買って帰った酒のビンを開封。
ミックスナッツをボウルに流し込むと、ハリードはソファにどっかりと腰を下ろした。

パブへ行けば様々な種類の酒やつまみが出てくるし、飲み食いだけして帰ることができて非常に楽ではあるのだが、
人目のない宿の客室でのんびりと酒を愉しむ晩も、時には必要なのだ。
なお、旅において液体の入ったガラス瓶を持ち歩くことがリスキーであるという理由で、ひと晩でカラにすることにしている。
エレンからはひと瓶飲みたいだけでしょ!とつっこまれたが、荷袋に酒瓶を入れて歩くことは鞘に収めないままのナイフを懐に入れておくことに等しいと答えておいた。





浴室から聞こえてくるエレンの鼻唄をBGMに、グラスを傾ける。
彼女の入浴時間は平均すると15分ほどだ。時計を気にしながらナッツを齧っていると、エレンは12分で浴室から出てきた。
「ハリード!」
バスローブの裾を揺らし、ぱたぱたと走り寄ってくる。
ハリードはそのためにソファの片側を空けていたし、ミックスナッツを入れたボウルの横には空のボウルも用意している。
「分かってくれてるのね」
「よほどのお気に入りのようだからな」
エレンの目当ては、ミックスナッツの中に紛れているクラッカーだ。
今夜のようにハリードが宿で酒を飲んでいたある時、つまんでみたら、はまったらしい。
ミックスナッツ自体は割とどこにでも売っている商品なのだが、このクラッカー単品での販売はエレンが知る限り、無い。
「製造工場に乗り込んで、これだけたくさん詰めて売ってくれるように頼みこんでみようかしら…」
「乗り込むな。まずは投書だ、投書」
勝手にクラッカーを選り分けるエレン。ハリードも手伝った。
このクラッカーは特別変わった味付けということはないが、素朴な味わいに加え、歯ごたえやしっとりさ加減が絶妙で、やめられなくなる…という方が正しい。
エレンは包装に記載された製造工場の住所を見ている。本当に投書をするつもりだろうか?
と、ハリードが横顔を眺めていたところ、エレンがふと切り出した。
「最近ずっと、今日みたいにひとりでお酒を飲むのを邪魔してて、ごめんなさい」
「なんだ、今さら」
「ひとりで考え事をする時間でしょう?」
「うーん」
エレンがこのクラッカーを目当てに隣へやってくるようになったのはここひと月ほどのことだ。
確かにそれ以前、独りで酒を飲みながらあれこれ考え事に浸る夜もあったが。
考え事は酒に頼らなくともできる、旅路の休憩の合間にでも、野宿の見張りの時間にでも、眠る前にでも、…

などと、『考え事についての考え事』をしてみたところ、心当たりに行きついた。
滅びてしまった故郷と、その戦乱にまぎれて消えた、愛しい人の姿…
美しい、輝くような想い出を追っているとやがて、それらは炎と血の色にまみれてゆく。酔いの所為かは分からないが、これを止められなかった。
酒を流し込んでいても味がついてこず、ただ頭がぐらぐらとするだけで、悪酔いに終わった晩。


グラスに入った酒を、流し込んだ。
美味い酒だ。ハリードは微笑う。
「おそらくお前が云っているのは、俺がたまたま、深く考え込んでしまった晩のことだ」
「………」
「いい思いも悪い思いもするのが酒だとは思っているが、俺にとっては味のほうが重要なものでな。邪魔になりそうな考え事はむしろ避けている」
エレンの肩を抱いた。
「右手に酒、左手に女、いいじゃないか」
「もう酔ってるの?」
「まだ2杯目だぞ」
たまたま深い考え事をして、暗い顔で酒をあおっていた晩のことを、エレンはずっと心に留めて、気にかけていたわけだ。
理屈で彼女を旅の連れとしているわけではないが、そんな一面に救われたことが幾度かあったのを、ハリードはいちいち記憶している。
「クラッカーくらい、いつでも分けてやるよ」
「じゃあ、遠慮なく」
「よそではするなよ」





…と、いうようないきさつがあり、ハリードはすっかり気分を良くしていた。
甘い味の酒、もしくはフルーツジュースなどで割ったものしか飲めないエレンには、氷と水とで薄めたものを用意し、ちびちびと飲んでみろ、と指図を。
彼女は酒に強くはある。これまでにも各地の酒をあれこれと勧めてきたが。
「ハリードには悪いけど、あたしはやっぱり甘い飲み物で割りたいかな」
「残念だがまあ、こればかりは好みだからな…」
「今度、宿でお酒を飲むときは教えて。お店が開いてるうちにフルーツジュースを買っておくわ」
エレンは、苦手な味であることを素直に云いはするが、その後の挽回を忘れない。先ほどの気遣いもそうだが、そういう性格だ。
「こんな恰好でお酒が飲めるのも楽しいもの」
また肩を抱くと、こちらへ体を傾ける。少し緩んでいたバスローブの胸元が、生地のたわみで肌をのぞかせた。
右手に酒、左手に女…などとジョークを飛ばしたが、それがジョークではなくなってしまう。


もうじき酒瓶がカラになるというころ、最後まで注ぐつもりで、氷が融けて小さくなったグラスに琥珀色の液体を流しいれる。
あと少しのところでグラスはいっぱいに。氷を入れられるだけの余裕もないが、構わず飲んだ。
強い酒の刺激と味が肉体の芯に沁みるような感覚を、やりすごしたらまた、グラスに口をつける。
「!?」
何の承諾もなしに、口移しで酒を飲ませようとした。
エレンに受け容れる構えが無かったせいで、半分ほどの量が零れ落ちてしまう。
「ん…っ」
「………」
「…もう、急に…、こぼしちゃった…」
胸元に流れた液体が、谷間のその奥へ流れてゆくさま。
程よく酒にしびれた脳は、そこへ舌を這わせることをためらわせなかった。
「ちょっ…!」
かといって、腰のくびれに腕を回し、逃がさないようにしておくことは忘れていない。本能的であるといえばそうだろう。
そのままで押し倒すと、むせ返りそうな酒の匂い。
胸の間に残っていた水分が、肌をランプの灯りに光らせ、男の眼を釘付けにする。
顔をうずめてそれも舐めとってしまいたいという衝動は、エレンから鉄拳が飛んでくる恐怖に負けたため、代わりに指を滑らせた。
「あ、…、」
バスローブを開くと、腹のあたりまで伝っていた酒をまた、指先で撫でて…
感触に身を捩る様子と、思わず声を漏らした口元へ手の甲をつける仕種。
見とれていたら、じろりと睨まれた。
「ばか」
「悪い」
「…こういう趣味だったの?」
ある意味、鉄拳よりも胸への打撃効果のありそうな台詞が飛んできた。
女の肉体に酒を零し、舌や指でなぞる行為が、悪趣味だと云われたなら否定はできない。
そのような具体的な意図はなかったにしろ、結果的にそうしたわけであるし…。
「こんなことをしたのは初めてだ」
「………」
「素質はあるのかも知れん」
独りで酒を飲む時間を尊重する気遣いをくれようとした人に、こんなことで応えてしまうのはあまりにも…と、ハリードは考えた。
グラスの中の氷の如く、今にも融けて消えてしまいそうな、あとひとかけらの雄のプライド。
しかし、髪やバスローブを乱したまま、羞恥と高揚の入り混じるような、頬を赤くする表情でいる女性を眼前に、中断をすることは困難を極める。
「よそではしないでね」

上手い切り返しだ。
これに対抗しうる言葉、単語すら、ハリードにはひねり出すことができない。
あと少しだけ残っていた酒のことも忘れて、キスにおぼれた。






翌朝、そのソファで目覚めたふたりの前には、
飲みかけの酒が残った2つのグラス、底にほんの少しだけ酒が溜まった酒瓶、食べかけのミックスナッツ…
氷が融けてなくなり水だけが入ったアイスペールは、結露していた水分をテーブルにたっぷり広げている始末。
人目がないとはいっても、だからといってあまりにも、である。
おまけに寝坊だ。しかも、最後に原液に近い酒を飲んだせいなのだろうか、ハリードは頭が重い。
「次にお酒を飲むときはパブでね!」
エレンの尖った声が、ハリードの頭の奥を揺さぶった。



END

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