デザートローズ

かつて愛した女性がいたが、戦禍のうちに悲劇が起きてしまったのだと、話してくれたことがあって、
それはとても哀しいことだと思うし、身内を赤子のうちに亡くした人も身近にいたから、苦しみは解るつもりだ。

ただし、そのことはエレンにとって、小さな剃刀をポケットに入れたままのような、そんな感覚で
時折、深く思考の底へ落ちている彼を見ると、触れることが許されないのが分かって
気が遠くなったりもした。


彼はその人のことを、ずっと心にとどめているはずだ。
何年、何十年経っても。
「おやすみ」
そう云ってくれた彼の眼には、今、自分だけが映っている。
それなのに自分は何が不満なのだろう。
寝室へ向かおうとした背中に、縋りついた。

自分よりも十数年、長く生きている人。
自分と出逢う以前に、遠い国で年月を重ねてきた人。
自分が知らない女性と、愛し合っていた人。
「どうした?」
胸がいっぱいになるほど彼のことばかりを考えて、勝手に辛い思いをして。
醜い感情に、これほどまでに囚われる性格ではないはずだと、自分で自分を形づくっていたけれど。
嫉妬にまみれて、途方に暮れるなんて。

「一緒に寝てもいい?」
月光の射す寝室へ、何も云わず迎え入れてくれて、顔を見上げたら、微笑ってくれること。
「さては昨夜、オバケでも出たな?」
冗談に何も答えなくても、そっと髪を撫でて、抱き寄せてくれること…
別の人にも、同じようなことをしたのかどうか、
そんなことを考えてしまう頭を、彼の胸に埋めて。
嫉妬、独占欲、我儘。
彼は、どこまで許してくれるだろう。

薄いタオルケットの下で、彼の肩に額をつけるような恰好をとる。
「見るからに元気がなさそうだが、訊かないでおいてやるか」
ベッドルームへ押しかけたのは、醜い感情がもとだ。
それで、自分だけを見ていてほしくなったのだった。
今、それは叶えられている。
「俺の隣でよければぐっすり眠ってくれ」
彼はいつものように優しくて、…でも、子供をなだめるような言葉を聴かされたようにも思えて、
もどかしい距離を感じた。
別の人を、ベッドの隣へ迎え入れたときには、彼はどんなことをしたのだろう。
その瞳は、唇は、指先は…、
「まだ、寝ないわ…」
エレンは隣の男に、キスをねだった。
優しいキス。
「もっと…」



それから数分、…あまり、優しくはないキスで、ベッドにつけた背中が汗ばむ。
彼の呼吸も少し、荒くなっているのがうれしくて、うっとりと顔を見つめた。
「…まずいな」
ひとまわり以上も年齢のかけ離れている人が、自分を前にして唇を噛んで、短く息を吐いて、何かをこらえる。
そんな仕種がエレンの中のどこかを揺さぶる。
男の貌を、両掌で包んだ。

この人の理性を崩すのが自分の肉体であるのなら。
醜い感情が、少しでも消えてなくなってくれるような気がした。
彼の五感と時間とをすべて奪ってしまえるひとときが手に入るのなら、

月光が白く、男の瞳にハイライトを刺した。
「エレン…」
腰を撫でられると、反射的に体が逃げをうつ。
これから衣服をとられて、素肌に触れられたら…、
まだわからないその続きのことを想像してしまい、身を固くすると、
男は背中を丸くして、抱え込むようにしてエレンを引き寄せた。
「…今は、だめだ」
薄着の季節、一枚ずつの衣服越しの体温を、熱いほどに感じる。
「お前の思い悩んでいることが、ひと晩の記憶と共に焼き付いて、消えなくなるはずだ」
きっと、その通りになると、思った。
けれど、このまま肌が離れてしまうのがいやで、喉から出てこようとした台詞をそのまま口にした。
「あたし、もう、子供じゃない…」
男はまた、短く息を吐いた。


月光が翳る。
唇を塞いだ隙に、衣服を胸の上までたくし上げる腕。
胸のふくらみに吸いつくようなキスをした唇と、その次にかすめる熱い呼気。
視界が闇におちたせいもあって、どんなことをされているのか、理解はしても、思考はついていかない。
繰り返されるたび、まるで男に媚びるような声が、呼吸と一緒に零れて、…
「暑いな」
チュニックを脱ぐと、汗でじっとりと湿気を帯びたエレンの背中に腕を回して、男はそんな一言を。
当然、返答など発せられない。
男がまともに喋るのもこれが最後になった。
「…っ、ん…」
よく鍛えられた肉体は引き締まっていながら、女性らしい柔らかさもひそんで、魅力的だ。
男は我を忘れ、その肉体の上へ荒い呼吸を散らして、そのうちに舌を這わせてまで堪能しはじめた。
「はぁ、…あっ」
腹筋が作る窪みに汗の滴が溜まり、身を捩ると流れ落ちてゆく。
暗闇の中、間近で見なくてはわからないようなことを、男の眼が追う。

それが続くうち、体が自分のものでないような、あるいは自分が別人であるような錯覚に陥っていた。
体の中心に居座る熱のせいだ。
どんな顔をして、どんな声をあげているか、認識はしていても、抑制がきかない。
恐怖か不安かのどちらかに襲われ、男の背中に、両手がさまよう。
「キス、して…」
要求に顔を上げたこの人に、雄の色を感じることは今までにもあったのだけれど、それが圧倒的に支配しているような眼差し。
束ねた自分の髪を持ち上げる仕種には妖艶さすらあって、彼もまた、違う人であるかのような。
「…んっ」
太腿の内側を撫でながら脚を開かせ、男はそこへ体を割り込ませた。
大きな胴体を、腕をいっぱいに伸ばして引き寄せたら、遠慮なしに体重をかけられて、息苦しさを増す。
胸と胸とがぴったりと貼りつく、ゼロの距離。
なにも考えられなくなり、されるがままに舌を絡ませる。



雲が流れ、月光が差した。

泣き顔にかかる長い髪を払い、エレンの衣服を戻して、息をつく。
「明日までに、妙な考え事は忘れておけ」
額に浮いた汗を拭いながら、エレンの真上の位置から退くと、もとの場所へ。
「…明日?」
「さっき云った通りだ。今はだめだ」
うつ伏せの体勢をとった彼は、まだ少しだけ肩を動かして呼吸をしながら、歯を見せて笑った。
「今日は死ぬ気でこらえるから、続きは明日な」

嫉妬でも、独占欲でも、我儘でも、彼は全部、許してくれるのだろうと考えていた。
そこへ浸りきって、溺れてもいいと思っていた。
ひとつ、お願いごとを却下されたことで、エレンの中で張りつめていたものが切れた。

ぼろぼろと涙をこぼすと、それが大したことでないかのように、彼は頭や頬を撫でて微笑う。
そうやっていつも、子供をなだめるように、…でも、
温かい手が好きで、ずっとこうしていられたらと願って、もっと泣いた。
腕の中へ潜り込んで、髪を梳かすように撫でられるうち、エレンは眠りについた。





何か夢を見ていた気がしたが、キスで目覚めを迎えたせいで、すぐに記憶からは消えてなくなってしまう。
「寝坊だぞ」
「ん……」
何度かキスをしたあと、時計を見た。普段の起床時刻よりも一時間半ほど遅い。
「…朝ごはんは?」
「やっぱりお前はそっちか」
「だって、トーストが固くなったら食べるのに苦労するもの」
ふたりで起き上がって、昨夜の月光のひそやかさが嘘のような陽光を浴びた。
暑い季節のそれは肌をちくちくと刺すような感触がするが、構わずに互いの体を寄せあう。
「!」
すると男の手があからさまに、エレンの衣服の上を剥ぎ取ろうという動作を。
「だめ」
「夜まで待てないんだよ」
情けないことを云いだす人を笑って、首筋へキスをしたら、そのまま頭を預けた。

「今日の約束は、守るから」



END

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