bleu acide

昼寝中のエレン。
彼女はよく鍛錬をしてよく戦うから、珍しくはない光景。
しかし今日は、何もすることがないために昼寝を強いられている形だった。

「………。 はっ!?」
急に起きた。
ちなみにここはソファ。隣でエレンの髪を撫でていたハリードが笑った。
「何が起きたか知らんが、夢だから安心しろ」
「…あら?あんたいつからそこにいたの…」
「5分ほど前か。お前が俺を呼んだからな」
どうやら寝言で彼の名を口走ったらしい、と気づいたエレンが、慌てて顔をそむける。
「もう、どっか出かけてきたらどうなのよ」
「そのつもりだったところをお前に呼ばれたんだよ」
彼女はよく歩いてよく遊ぶから、普段だったら宿屋には荷物だけ置いて外出するのだけれど、本日、雨天なり。
それでこうしてツヴァイクの宿屋で昼寝を強いられていたのだった。
「あたし留守番してるから。お土産にアップルパイ買ってきて」
「しかしなぁ、一度座り込むと行く気を失くすんだ。5分も経過すれば8割は」
このハリードは年甲斐もなく、つまらない冗談や悪ふざけがお好き。
ひとまわり以上も年下のエレンが『またくだらないこと云ってる』という顔をした。

王族の出である彼はまず、帝王学という特殊な分野に触れている。
他にも上流階級に求められる知識や教養、行儀作法も当然叩き込まれた。平民のエレンが受けた教育とは比較にならない。
果ては、故郷を滅亡させられるという壮絶な経験をしてしまったような男だが…。

「ブーツを履いていれば出かけたんだ。しかしその前にこうやってソファに落ち着いてしまうと、どうもだめだな。ブーツの紐を締め上げる手間がどんどん惜しくなる」
くだらないことを丁寧に解説して、ご満悦な表情。
「お前も分かるだろ?鎧まで着たならこの先の森に入って行く気になるが、そうでなければまだ休憩して、もう1個、握り飯を食っておこうとか」
「分からなくもないけど、そんなに語られても困るわね」
「無粋だな。つまらないことを闇雲に追求するロマンというものもあるだろ」
エレンはふと、ハリードという男の人格形成に影響した要素を、知りたくなった。
厳しく育てられた反動でこれほどまでにくだけたのか、あるいは国を出て世を流れる身分になってからの変化か…
「じゃあ、あとで、あたしも一緒に出るわ。アップルパイと、ミルクも買うから、持ってね」
「俺が持たなくてはならんほどの量のアップルパイが一軒のベーカリーにあるか?」
「どこに頭をぶつけたらそんな発想ができるようになるのかしら!」
平民の自分が知らないだけで、王族貴族の教育カリキュラムにはユーモア学みたいなジャンルがあったりして?
そんなところまで想像しながら、雨が打ちつける窓ガラスを見上げたエレン。
ハリードもその目線の先を追った。
「それにしても、雨期でもないのによく降るわね」
朝方からの豪雨だが、ツヴァイクの城下町は整備がなされていて、その中でも都市排水機能は随一なのだという。
その評判の通りに、どれだけ雨が降っても石畳の表面が濡れて見えるだけで、馬車が問題なく通行していた。
「ここはすごいわ、シノンだったらみんな大慌てよ。畑の排水って難しいから」
「ほー…」
「急にあたしに興味なくなってない?」
ハリードは窓を見つめて、微笑った。



「雨というものは、砂漠地帯においてはやはり極端に少ない。オアシスでもな。小さい頃はよく空を見上げていた。
 どうして水が天から落ちてくるのかと従者に訊ねて、教えてもらったはいいが、今度は雲の仕組みがよく分からなかった」
「それで、どうしたの?」
「追究はしなかった覚えがある」
小麦農家に生まれ育ったエレンにとっての雨は天の恵みだ。毎年恒例の雨乞いの行事もあった。
しかし、雨期にざぶざぶと降ってくれるものであるし、珍しさを感じたことはほとんどない。
「次に俺の興味が向いたのは、雨の降り方だ。石畳一枚の上に、同じ大きさの粒が同じ間隔で落ちるのはなぜなのか」
「探求熱心な男の子だったのね」
「ある意味バカかもな」
「あたしはそれに対してなんて答えるべきか分かりかねるわ」
エレンは昼寝を強いられて退屈だと考えていたことと、くだらない話を聞く機会に恵まれたことを天秤にかけ、後者をとった。
先ほどから手振りをつけながら語っているハリードを、覗き込むような姿勢に。
「それもまた従者に訊ねた。隣の奴の頭の上にどばっと降って、自分の頭の上には降らなかったり、ってことはないのか?と。
 いい大人が話し合った結果、分かりませんという回答だった。大人とはそんなものかと憂いたぜ」
「生意気な男の子だったのかしら」
「ある意味天才かもな」
「バカなんじゃない?」
「完璧な返しだ」
彼は子供のころから剣術の鍛練でお師匠のもとへ通っていたそうだが、その行き帰りには普通に遊びまわっていたのかも。
「まあ、翌日にはそんな疑問も忘れ去って、雨の歌を唄って過ごしたものさ」
そうそう、お父様の影響で歌も好きなのだった。
「雨の歌って、どんな歌?」
「砂漠に雨がたくさん降ったなら、飲み水やら何やらは潤うが、太陽も月も覆い隠され、我々は退屈するだろう、という感じだ」
「その気持ちは分かるわね」
「今まさにな」
滅びてしまった故郷のこと、暮らしのことを、エレンが訊くことはできない。
くだらない話を聞かされた今日のひとときは、エレンにとって大切な想い出…と云っても云いすぎでない。
肝心のハリード本人は、何とも思っていないのだろう。そういう人格である。




「雨が止む前に、外へ出てみる?」
「お前、雨は嫌いだろ」
「“雨の境目”って気にならない?」
「おお、何か話し忘れたと思ったんだ。それだ」
人類共通の謎は、このふたりにとっても謎のままである。
「目撃者と会ったことがないの」
「砂漠でなくてもそうなのか。妙だな」
エレンが身支度を済ませると、最後にハリードがブーツの紐を締め、ふたりは傘を持って宿を出た。
「もしあたしたちが遭遇できたら、その境目を行き来しなくちゃね」
「しばらく行き来しても飽きなさそうだ」
雨に濡れた石畳を、香ばしい香りに導かれるようにして歩いて、ベーカリーを目指す。



END

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