brown sugar

サラにとって、よその家で過ごす日々はいつまで経っても居心地が悪く、
カレンダーの日にちをひとつひとつ、課せられた務めのように、消してゆくことすら苦になった。

15日前までなら、昼までに農作業を終わらせ、あとは花壇の世話でもして、家事と、読書と。
体と目を適度に疲れさせたなら、心地よく眠りに就けたのに。

いよいよ日付が変わってしまいそうな時刻にまで目が冴えて、窓の外に、夜の闇をおぞましく見るのだった。




「サラ。ちょうどよかった。おいで」

廊下に出ていた少女の背中を呼んだ、男の声。
彼女がただのひとつだけ、心の支えにしている、優しい声だった。
「トーマス!」
広い館の奇妙に冷えた空気をふりほどいて、キッチンルームへ。

ケトルが湯気を吹いているおかげか、ぼんやりと暖かい。
サラにとってはまるで、暗い洞窟内で他のパーティに遭遇したかのような安堵感だ。
「こんな時間まで、夜更かしか?」
「私を呼んだのはお説教のためなの?」
ティーカップとソーサーがもうワンセット出てきて円テーブルに置かれる。
ふたつ並んだそれはかの有名な磁器工房のものだ。サラはテーブルに飛びついて、繊細なユリの紋様に瞳を輝かせた。
「眠れない気持ちも解るよ。俺も正直なところ、眠りが浅いんだ」
「ほんと?」
「数日のうちに、祖父の縁故の人が俺を訪ねて来られるそうでね。何が待っているやら」
「おじいさまの代わりの、教育係の人だったりして」
コーヒーの香りが、ふたりの横顔をほぐす。

ここピドナは城下都市。勢力的にも経済的にも、そして地図の上でも世界の中心に位置する。
上流階級の住むこの一帯は静かで、南番地の東にある港からの、汽笛の音が聴こえてくる。
ブラウンシュガーを融かして、サラはもう一度カップの紋様にほれぼれと微笑んだ。



15日前までは、故郷シノンで、飾り気のないティーカップに口をつけていた。
14日前も、いつものように夜は村周辺の見回りをして、行きつけのパブでひと休み、という時間を過ごしていた。
すべてが変わったのはこの日の晩だった。
ロアーヌ侯爵の妹モニカが、プリンセスにしては質素な衣裳…それどころか嵐に打たれてずぶ濡れの姿で、シノンのパブに現れたのだ。

「なんだか、全部、うそみたい…」

シノンを統治下に置くロアーヌ侯国に、反乱を企てる者が現れたのでは…と、居合わせた旅の傭兵ハリードが語ってみせた。
若者たちは、領主の身に降りかかろうとする危機を見過ごせず、プリンセスの護衛を請け負うこととなる。
9日前に、その騒ぎは収束。
8日前、侯爵殿下から直々に感謝を賜り、褒賞まで頂戴した。
7日前…
ロアーヌ城下町で、シノンの若者たちは息抜きをして過ごした。
土産もしっかり買い集めて、やがて開拓民ぐらしへと戻るつもりでいたのだが…
トーマスは一度いきさつを祖父へ報告しに戻ったところで、ピドナの叔父の館を訪ねるよう命じられ、
その間、幼馴染のユリアンはどういうわけか、モニカ姫の護衛隊の創設メンバーに大抜擢。

「確かに、この半月でずいぶんと環境が変わってしまった」
「うん…」
「しかし、ユリアンは晴れて宮仕え、俺もこうして大きな街へ出てきた。君があのままシノンへ戻っても退屈していたろう」

サラにはいつも、4つ年上の姉、エレンがついていた。
身なりも性格もまるで正反対、武術を趣味とする姉が、サラを守るという構図が日常だった。


 『お姉ちゃん、私、もう大人よ!ピドナにだって、どこにだって行けるわ!』
 『あらそう、ずいぶん“オトナ”になったのね!ピドナでもなんでも勝手に行きなさい!!』


トーマスについて行くのだと姉に告げた途端、互いに意地を張り合って、みっともない口論を繰り広げてしまった。
自分を変えるため、新しい景色を見てみたい、その一心で、ピドナという大都市へ向かう決心をしたのだけれど、
姉との関係性が悪い方向へ傾いてしまうことは、もちろん、本意ではない。
サラがため息ばかりついて過ごす要因のひとつだ。




これまで一度たりとも喧嘩をしたことのなかった姉妹が突然、離ればなれになったという、大事件。
同じ村に生まれ育ったトーマスも、そのあたりのことは察しているようで、どうやらここからが本題らしい。
「実はね、エレンから手紙が届いたんだ」
「!」
無地の便箋に、見覚えのある走り書きの文字が透けて見えて、サラは表情を硬くした。

「“サラはどうしていますか?迷惑をかけてない?トムの邪魔をするようだったら、シノンへ帰してあげてちょうだいね”」
緊張するサラを尻目に、トーマスは一部分だけ読み上げて、含み笑い。
「なによ、お姉ちゃんったら!」
「はっはっは」
「笑わないで!」
「サラ。差出人のところを読んでみて」
茶封筒の裏面には… “ランス3番通り5番地の宿屋にて エレン・カーソン”と…
「…お姉ちゃん、シノンにいないの??」
「ハリードと一緒に北へ向かったみたいだよ。あいつは子供みたいだとか、マイペースで面倒だとか、けっこう楽しくやってるみたいだ」
「………」
「ハリードの武術の腕前に、エレンが釘づけになっていたのを見ただろう。彼に付いて修練したいと思ったのかも知れない」
サラは口論のあと、ひとりロアーヌのパブを飛び出した。
後を追って来てくれたトーマスとそのまま港へ向かい、それっきりで、エレンは故郷へ戻っているものだと思い込んでいた。
「会えないの?」
ほとぼりが冷めたら、シノンへ帰って、きちんと仲直りをしようと考えていたのに…。
「まさか。心配いらないさ」
「でも…」
自分自身が見知らぬ土地にいて、姉もまた遠くの地へ…。
ますますサラの不安は募る。
それにこのトーマスもピドナへ来てから、用事があると云って出かけたり、部屋にこもって調べものをしていたり。
ひとりきりで過ごすばかりなのが、何より一番、サラには堪えている。




手紙は、サラに手渡してやるでもなくテーブルへ置いて、コーヒーを一口。
「サラ、君は、この街で何かやりたいことはあるか?」
「わからないわ…」
「ピドナにはなんだってあるぞ。ここでは裏手の花壇の世話か、家事の手伝いしかすることがないだろう」
南番地のしゃれたカフェでウエイトレスをするのか?貴婦人が身にまとうドレスを作る工房で修行でもするのか?
一人で夕食の食材を買いに出たときは、人ごみだけでも具合が悪くなりそうだったのに。
「シノンにあったような素朴な品物にはお目にかかれないと思うけどね。
 世界中からものが集まるから、一味違ったケーキでも作れるんじゃないかな」
「…ケーキ?ケーキ屋さんで働くの?」
「ああ、そうか、悪かった。いきなり仕事を見つけろという意味じゃない。
 夜更かしをしてしまったから明日、朝はゆっくり寝て過ごして、買い物に出かけよう。サラ」

サラは思い違いを取り繕うようにカフェオレに口をつけ、トーマスの顔を見上げると、柔らかい微笑みを見つける。
「俺もようやく、祖父からの頼まれごとを済ませたんだ。そのあいだ、君を連れて来ておいて放ったままだったから」
「で、でも、おじいさまの知り合いの人が来るんじゃないの?」
「西の、静海沿岸地方から来られるらしい。まだ何日も後だよ」
祖父からの言い付けで村を出る彼に、ついて行きたいと我儘を云ったのはサラだ。
あれこれ抱えていた不満がどれほど身勝手なものであったかを思い知って、うつむいた。



けれどまた数日後、彼には次の用事ができてしまいそうだ。
一緒に過ごせる時間がずっと恋しかったのに。

「それじゃあ、買い物と、あと、きれいな景色のところへ連れて行ってほしいな」

謝罪を述べるよりも逸る気持ちにまかせ、そんな我儘を口にした。
ついて来たのはそっちだろう… だなんて、そんな風に相手を責める人ではないから。
「よし、分かった」
お気に入りのワンピースとお気に入りのブローチは、鞄に詰めたまま、まだ一度も出していなかった。
「楽しみ!」





黒のインクで斜線を入れていたカレンダーの、日付が変わって今日の枠。
赤いインクにペンを浸して、ハンドバッグのイラストを描きこんだ。



END

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