to the spectrum blue

発作のようなものだ、と、
ハリードは語ったことがあった。

黒い霧に、背後から包囲され、囚われる。
身体を横たえようとするベッドがその黒い霧の正体で、まるで奈落へ身投げをするような感覚に陥る。

ハリードは肺を酸素で満たして、一拍置いて、黒い霧を吹き消そうとした。
当然、霧などここにはないが。
「ばからしい」
恐らく、医者に診ていただけば、心の病を宣告されてしまうのだろう。知人(同僚の兵)にそのようなケースがあった。
…逃げ出したい。だからベッドからは離れた。
そのまま客室を出て、曲刀カムシーンを腰に提げ、夜の闇へ。


砂漠にあった故郷、ゲッシア王朝が滅亡させられた。
それは十数年前のことで、決して忘れはしないが、上手く割り切っているつもりだ。
ところが、そんな記憶が、何の前触れもなく舞い戻るひとときがある。

焼き討ちに遭った王宮を見限った瞬間。
真夜中に奇襲を仕掛けてきた神王教団軍のシンボルマーク。
喉の奥に熱傷を負った息苦しさ。
見失った、あの人。
血の味。






あてもなく歩き回り、悪漢もモンスターもいない平穏な街の夜をやり過ごした。
空の色が薄まってゆく頃、宿屋へ帰還。

「ハリード!おはよう。お散歩おつかれさま」
自分の感情を肉体の内側へ閉じ込めて、外界からの情報も遮断していた。
そこへ飛び込んできたのは、太陽の輝きのかけらのような…
彼女は農家に生まれ育ったから早起きで、既に脳の隅々まで覚醒させた様子。
「今日は一段と早いな」
「あんたもね!早朝のお散歩なんておじいちゃんみたいね」
「30年後には丑三つ時に散歩してるんだろ」
「それって多分、お散歩とは云わないわ」
こうやって、“偽装”をすることは出来る。別人のような誰かが自分の表側にいて、普段の通りに振舞える。
カムシーンを外して、窓際へ。
まるで差し込む朝陽を気持ちよく浴びるかのようにして。
実際にはこれは彼女の、目線を受け止めないための行動だけれど。

「エレン」
顔を見ぬままで名を呼べば、隣へやってくる、上機嫌そうな鼻唄。
「もう一日、ここへ留まろうと思うんだ」
「いいけど、どうして?」
「…探し物が、」
ふと、大きくぐらついた感情が、エレンの鼻唄を遮る。
カムシーンで肉を斬った手応え。火災から逃げ遅れた小さな子供の亡骸。
視界が砂嵐のようになったかと思うと、言葉が出なくなっていて、
“偽装”がほどかれる。
「…ハリード?」
初めてではない。
この女性の前では、二度目。


発作のようなものだ、と、
そう話して聴かせたのだった。あの時は。
過去の記憶が舞い戻る現象のことを。


「道具屋を、見て回らないといかん」
「そうなんだ。そういえば、大きいお店があったものね」
エレンの声は正常で、鼻唄がまた始まった。朝陽は眩しい。
「それじゃ、あたしはどうしようかな」
テーブルに置いてあった手鏡と櫛を仕舞ってチェアを引く。
彼女は何も察しなかったのか?自分の薄暗い表情に苛立ちを覚えてしらじらしくしているのか?
いつもなら彼女の心情は手に取るようにわかるのに、今は一枚の壁を隔てているよう。
記憶のほうが遥かに鮮明であるためだ。
「うーん、お腹がすいてるから、朝食が来たあとに考えなくちゃ」
せめてもの微笑を浮かべて、ハリードも静かに向かい側のチェアへ腰を下ろした。














一方的に故郷を滅亡させられただけであったなら、怒りで対処が出来ただろう。
しかし対立が続いた果ての結末だった。互いに共存の道を探ろうとはせず、ひたすら忌み嫌いあっていた。
神王教という新たな派閥を弾圧する理由として『一部の過激派の動向を懸念』という文言を国が表明していたが、
“正義”の名のもとに闘っていた、そのつもりだったのは当初の数年間だけで、
いつからか、勝敗を決することだけが両軍の目標にすり替わっていた。


独り、街を離れる。小さな丘が見えていたからそこへ。
なんともありきたりだが『気分転換』をしたい。いいや、
この発作の起きたときは、そう簡単には戻れないが、『気分転換をした気になっておく』というだけでもましだ。
花畑に点在するクローバーの集団を、踏んでしまわないように、よろよろと避けていった。
「……ふっ」
小さく吹き出して笑う。
エレンと出逢って間もないころ、自分が花をまったく気にせず踏んで歩いていたのを、こっぴどく叱られてからの習慣だ。
クローバーの花弁は綺麗な球形をかたちどっていて、しばし目を奪われる。
エレンなら、四つ葉のクローバーはないかと探し回るところだろう。
彼女を恋しがる分だけ、面影が霞んだ。

突然変異である四つ葉のクローバーを有難がるしきたりに嫌悪感をおぼえるのは、今の精神状態だからか。
奇形の赤子を神として崇めるようなことを、どうして出来るのだろうかと、
飛躍してゆく思考に、自分自身でついて行けなくなって、頭の中を血の色で塗りたくった。
凝固する前の鮮やかな深緋色、皮膚にこびりついて剥がれない赤銅色、
血の匂いまでもが記憶から引きずられてくる。

砂漠を戦地とし、命を落とせば亡骸は砂に埋もれて出て来ない。
生き延びたとて方角を見失えば死を待つしかない、
犠牲を払って、男どもはただ半狂乱になり、何を得ただろう。


下らない争いの果てに、自分が得たものは何もなく。今となっては亡き国に誰も見向きはしない。
敗者が血と泥を舐める。
それがたったひとつの決まりごとだ。
それを受けて、例えばこの一人の男が刀をとって、小さな丘の上で自害をしたとしても、
蒼い空は血の色に染まることはない。


「…下らん」



















昼過ぎ、宿の主人の笑顔に迎えていただいて、客室へ。
『気分転換をした気に』なることが出来ず、お次は眠りに救いを求めようと考えたのだった。
ただしベッドではまた、昨夜の錯覚を見る羽目になろう。ソファならいいかと、安易な思いつきにも納得をしておいた。

扉を開くと風の流れる音。
あいつは戸締りを忘れたか?と、宿泊代金のわりに広い室内を見渡す。
すると、ソファの上に横たわるエレンの姿…。
昼寝中の様子だが、袖なしの肌着とショートパンツだけの恰好である。この季節、まだ風はひんやりとしている。

ハリードはどこかぼうっとしたまま、その傍へ近づいていった。
起きる気配がないのは早起きのせいだろう。
「まったく…」
羽織っていた上着をエレンの肩にかけた。
本当は、今朝方のあっけらかんとした態度が妙に気になって、不安でいたから、
すぐにでも目覚めてもらって、話してみたいけれど…
いざ向き合えば見放されるのかも知れない、過去に執着することを、彼女は好まないから。







ソファの背の裏に身を崩し、座り込んでいた。
「……んー?」
どれだけの時間が経過したのか判らない。
エレンの目覚めを、ひたすら何も考えずに待ち構えていた。
どんなに無様でもいいから、見放さないでくれと、縋りつくつもりでいた。
「……、」
「…あ、おかえりなさい…」
そう云ってから肩にかかった上着に気づく。
その間ハリードは、喉がつまって、言葉を発することが出来ない。



エレンは、まだ起き上がるつもりがなさそうだ。
男物の上着を自分でかけ直して、ひとつ大きく息を吸った。

「…だから、ハリードが夢に出てきたんだ」
心地良さそうな、やわらかい笑い方をして、まぶたを閉じる。
「ちょっと寒かったの…、ありがと…」









寝息の続きが聴こえだすのはこの直後。
「エレン…」
気の遠くなりそうな、静寂、
眠りを再開する直前に大きく息を吸った、その胸の上下するさまが、
永遠の眠りに就く一瞬のそれと似ていて。怖かった。
ハリードは元の場所に腰を落とした。
風は花の匂いを淡々と運んでくる。
黒い霧は多少、それにかき混ぜられて、薄まっただろうか。

 お前は、俺の心情を全部、理解しているんだな。

風がかき消してしまうほど小さな声で、呟いていた。いわゆる心の声だったはずが。
昨夜は一睡もしていないのにまだ眠気が巡って来ず、そのせいなのだろうと、唇の端で苦笑する。
「………」
そう、エレンはきっと、全部わかっている。
昨夜ベッドには一度も背をつけていないこと。もしかすると、丘に上って気分転換を図っていたことも?









下らない争いの果てに、自分が得たものは何もない。
何もなく、ただ、花が揺れて、空は蒼く、
エレンがそこにいて、
瞳と瞳を交わす。


たったそれだけの日々に、頬を寄せて、生きていられたら。
それでいいのだろう。



END

web拍手
[一覧へ]
[TOP]