wings reached the higher-sphere

気候を遮る役割を持つエルブール山脈に、アクバー峠はある。
リブロフの街からここを越えれば、砂嵐の煙るナジュ砂漠。

ハマール湖がオアシスを作り、そこにハリードの生まれ育った王朝が栄えた。
その地が今では、一族と対立関係に在った者どもの手中に。

哀しくない、ということはないが。
切り離すわけには行かない、忘却の果てへ追い遣るなどもってのほか。
だからこうして、淡々と見下ろすだけの目的で、幾度となく足を向けていた。




峠の頂では、風が鳴り止まない。
砂漠へは踏み入れるなと拒絶をされているかに思えたり、
風だけでも浴びてみろと情けをかけられているように解釈してみたり。

心の奥底に、温かくて心地好い、色褪せた風景がある。
剣術の鍛練に明け暮れた後の夕陽、
美しい湖の畔で繰り返した逢瀬、
きっとその風景の中へ踏み込めば二度と戻れない。砂漠と同じだ。

風はいつまでも、鳴り止まない。









険しい峠でも人間の往来はある。土や岩を平坦に削り、休息の取れる場所を造ってあった。
下ろした荷袋の側にいてくれているエレンのもとへ。
“こんなところ”へ連れて来てしまったが、どんな顔をしているだろう?
振り向いたエレンは、笑っていた。
「今日はほんとにいい天気ね!ハリード」
彼女の方が、一緒に行くのだと云い出したのだから。

風を遮る岩盤に身を隠すようにして、腰を下ろし、パンを取り出した。
焚火で温めておいたスープを器に注ぐ。標高と風のお陰で冷えるのだ。
「嵐の日は悲惨だろうからな、この峠」
「尖った岩がにょきにょき生えてるものね。ここを往復する運搬屋は賃金が高かったりして」
「空を読む学者がいるんだ。そいつらが天候によって往来や流通を止めている」
「それって、何日も先の天気を予想するってこと?」
「ああ。特に、砂漠の方面では砂嵐の影響も考慮しなくてはならん」
このアクバー峠を越えるには4日から5日を要する。
多目に見積もって6日先までの天気を予想する、そんなすごい学者がいるのか…と、エレンは宙を見つめて間抜け顔。
彼女が生まれ育った田舎の農村では、夕焼けの色や、燕の低空飛行が当たり前に信じられているのだ。
「何でも、凧に温度計を付けて飛ばすんだと」
「へえ…」
「ただし、基本的には過去のデータの蓄積だ。去年のこの日は大雨、毎年この時期は強風…ってな」
「すごいのかすごくないのか分からなくなってきちゃった」
鳶の鳴き声に空を見上げたあと、顔を見合わせると、ふたりで笑った。

尖った岩が分ける風は、エレンの前髪をくぐり抜けて行く。
綺麗な瞳が風に目を細めた。
「ごめんなさい、ついて来ちゃって」
エレンの前髪を今度は、ハリードの指先が撫でた。
睫毛がゆっくりと瞬くのを、更にスローに感じながら…。
スープの器を取り上げると、顎を持ち上げ、唇を塞いだ。
「…もう」
口を尖らせたエレンは器を奪還し、パンをちぎって浸け、頬張る。
「わざわざこんなことしに来たの?」
当然“こんなこと”が目的ではなかったが、人気のない峠ですら恥らう格好はなかなか可愛らしい。
「俺に申し訳ないと思っているようだから、これで埋め合わせだ」
適当な理由を示しておいて、スープに口をつける。
図々しさに負けたか、エレンは黙った。




なんでもないような会話をして過ごし、器を片付け、そろそろ戻ろうかという頃。
空を仰いだエレンが、ぽつりぽつりと呟き出した。
「ハリード、訊きたいことがあるの」
ハリードは同行をせがんだ理由があるのだろうとは考えていた。
「…怒らないで欲しいけど、怒らせたら、ごめんなさい」
微笑みだけ返して、耳を貸した。
「ずっと前に、国の復興には固執するのをやめたって、話してくれたけど。
 でも、生まれた場所で…、砂漠のオアシスで落ち着いて暮らしたいって思うこと、ないの?」

問いを受けて、ハリードの脳裏に広がるのは、心の奥底にある、色褪せた風景。
剣術の鍛練に明け暮れた後の夕陽、
美しい湖の畔で繰り返した逢瀬、
すべてが失われてしまった日、からからに乾いた喉。

「…そうだな、そんな気がないと云えば、嘘になる。俺もこれから老いぼれちまうんだからな」
色褪せた風景というのは、時の経過に因って色素と輪郭を失ったのではなくて、
その中に身を投じることを恐れるから、敢えてそんな風に、深い場所へ沈めてあるのだった。

もしもエレンの云うように、生まれ育った場所で暮らすのだとしたら、
きっと色褪せた風景の内側に閉じ篭って、二度と戻れなくなってしまう、

「しかし、この地には俺の過去しかない。振り返ることしか出来なくなる」
迷い込んでしまうと、死ぬまで彷徨い続ける砂漠と、同じで。
「前が、見えなくなる… そんな気がする」
想い出を順々に追って行けば、絶望に辿り着くのだから。



「エレン」
苦笑したハリードが呼びかけても、反応はない。
「それじゃあ一緒にどこそこで暮らしましょうか、くらいのことは云っていただけるかと思ったのにな」
「………」
茶化してはまずかったかと思い、顔を覗き込んだ。
きつく唇を噛んで、涙を堪えている。
先程のような強引さでキスをして、唇を切ってしまわないよう、ほどかせた。
合間の吐息が白く煙った。
「ごめんなさい…」
風で焚火が吹き消されてしまったようだ。容赦のない冷たさが二人の肌を切る。
寒がりのエレンはブランケットを被っているが、それでも肩を竦め、縮こまっている。
「…もう、変なこと、訊かないから」
ハリードは何か話をしようとして、息を吸った。
今の旅暮らしで充分だと慰めてやろうか、お前が傍にいればいいと甘く囁いてやろうか?
どちらも本音なのだけれど、どちらも、何だか安い口説き文句のように感じて、呑み込んでしまった。

ブランケットごとエレンを抱きしめて、風の音だけを聴いた。






砂漠の方面を背にして浴びる風。
この風はどこで生まれてどこへ行くのか、それは誰にも分からない。
「ねえ、ハリード」
斜面を這い上がるものと、空から降りて来るものと、風向は入り乱れて、つむじ風になる。
「やっぱり、明日の天気、分からない方がいいわ」
「なぜだ?」
「晴れるのか、雨降りなのか、楽しみに待ってる方が好き」







鳴り止まない風と、鳶の啼く声。
碧空は高く、旅人を見下ろしている。



END

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