ハマール湖近辺へ到達し、昼夜の寒暖の差が和らいで久しい。
それまでの2日間、エレンはほぼ通しで駱駝を歩ませていた。
「エレン、そろそろ休め」
「でも…」
「一晩とは云わん」
休憩を勧めたハリードは、怪我のために高熱を出している。人体の正しい反応ではあるが、それがエレンを急がせているのだった。
「お前に倒れられたら俺は終わりだぜ」
「もう、冗談になってないんだから…。分かったわ、休憩しましょ」
あれから一度も、カムシーンが鞘から抜かれることはなかった。

静かに澄んでいる湖。
ふたりでその水際へ腰を下ろす。オアシスとはいえ日中それなりに暑く、足先を浸けてみると心地好い。
「飛び込みたいくらいだ」
「あんたが入ったらお湯になるわね。温まろうかしら」
そう切り返しながらエレンは鎧を外し、髪を解く。立ち上がったかと思うと、遠浅の湖へ。
鏡のようだった水面が分かれるのを半ば呆然と見送っていると、やがて服のままで腰まで浸かる状態に。
「おいおい」
エレンは前屈みになって水中に頭を突っ込んだ。左肩の深い傷を濡らさずに髪を流そうということらしいが…。
それどころではない、全身傷だらけのはずだ。
エレンらしく荒っぽいやり方に笑いつつ、荷袋から新しい包帯を出しておいた。


ふと、グレートアーチでの日々を連想する。
あの時は海辺で見守るだけだったエレンの姿を眺めるうち、気が向いた。
「ハリード!」
エレンと同じように湖へ。すると彼女は慌てた様子で戻ってきた。
「その傷には良くないわ」
「深いところまでは行かないさ」
熱で敏感になった肌に染みる冷たさ。彼女のジョークの通り、水温を上げてしまいそうな気がする。
「ねえ、座って」
素直に従い、着衣のまま水面に尻をつける奇妙さに間抜け面をしていると、エレンはタオルを1枚持ってきた。
「頭だけでも洗いましょうよ。砂をまぶして擦り込んだみたいになってるわよ」
向かい合わせの位置に膝を屈めたエレンが、廃墟の奥で千切れて短くなった髪をほどく。
相変わらず毛先が首筋に流れるのには違和感がある。
「違う人みたいね」
「そうか?」
「悪くないわ」
頭を下げると、エレンが水をかけ、指で梳かしてくれる。気恥ずかしさよりも気持ちよさの方が圧倒的に上回って、脱力した。
モンスターの血液や体液を浴びたのだろう、薄黒い水滴が湖に吸い込まれてゆく。
「あたしも戻ったら、切ろうかな」
上機嫌そうな、弾む声。
されるがままにして、汚れが落ちきった髪に、タオルを被せていただく。
顔を上げてみれば、今回のような出来事を味わう前と、同じ笑顔を見つけた。
「ふふっ。さっぱりした?」
ずっと恋しかった笑顔だ。


「ちょっ…」
あのときのように、強引にキスをした。

高熱に浮かされているせいだと、自分に云い聞かせた。
実際、意識はあまり鮮明でない。

エレンが身を硬くしたのを感じ取りはしたが、構わずに、触れるだけ…を繰り返す。
水に濡れた唇が互いを食み合うと、甘美な毒のように、体をしびれさせる。
もっと深い口づけに溺れてみたい欲求だけは、今は抑えなければと、なけなしの理性が後ろ髪をひく。
「…ん、…」
キスの甘さに洩らす吐息が、キスを区切った。

髪から頬へと伝ってゆく雫。
下ろした洗い髪をまとい、薄らと上気した輪郭を撫でる感覚は、まるで夢のよう。
幸いにも、顔には傷はついていない。

「…あんまり、近寄ったら、傷口を濡らしちゃうわ」
「もうじき街へ着くんだ」
「ハリード…、だめよ、」
小さく抗った唇を、まだ逃す気にはなれなく。
手首を捕らえ、首の後ろを持ち上げ、逃げる手段を奪った。

聴覚を突くのは、ふたりの髪が落とす水滴の音と、合間を縫う互いの息遣いだけ。
触れた熱さは、自分の熱だけではない気がして。
夢中になった。



うつむくエレンを抱き寄せると、尖った声がハリードの聴覚を突く。
「あんたが怪我人じゃなかったら、分かってるんでしょうね!」
「つれないな」
真っ赤になって怒っているが、大人しく腕の中にいてくれるのだからと、ハリードは呑気だ。
「…あの時だって、初めてだったのに、血の味なんかしたし、砂だらけだったし…」
「何?聴こえんぞ」
「なんでもないっ」






ふたりの目に、森の先に広がる街並みが映った。
汚れた恰好で砂漠の南からやってくるものだから、そのふたりは少々、注目を浴びている。
ハリードがローブのフードを下げるのを横目に映しながら、エレンは駱駝を降りた。
教団の過激派は未だに蔓延っており、弾圧した側の主要人物を追っているとの噂も。
エレンはそのあたりの詳しい事情を知りはしないが、察してはいる。
「あたし、宿屋の娘さんと知り合ったの。ハリードのこと、相談してみていいかしら」
「お前はあちこちで知り合いを作るな」
「情報収集はパブと宿屋!あんたに教わったのよ」
人里へ到達した安心感か、エレンはすっかり元気だ。駱駝を引きながら、せかせかと歩いてその宿屋へ。


「エレン!!!」
カウンターにいたエマが身を乗り出した。
「ただいま」
入口の方まで飛び出してきて、手を握る。その上に大粒の涙が落ちた。
「泣かないで、エマ」
「こんなに、傷ついて…」
「平気よ、あたし頑丈なんだから。それに、エマにもらったバングルに助けられたの。本当にありがとう」
「エレン、あなたの力よ」
エマに事情を説明すると、やはりというか、ハリードの名を聞いて驚いていた。
ハリード“様”と対面するとやたら畏まるので、それをエレンが肘でつついてからかっていた。

そしてすぐ、この宿まで医者に足を運んで頂くことに。
ハリードの傷は厄介そうだからと、先にエレンが治療を受ける。左肩も併せて5箇所を縫った。
麻酔が切れれば痛むと云い渡されて表情がこわばるエレンに、笑いを堪えているハリード。
「あんたも覚悟するのよっ!」
「笑わせるなよ、傷に響くだろ」
そのハリードだが、経験の豊富そうな医者が溜息をついた。
「お兄さんが無事だから云えるけども、よくこれで生きて帰ってこられたもんだ」
「大丈夫なの?」
恐々と訊ねたエレンに、医者は笑顔で頷いた。
「内臓が破けているとかいうことはないみたいだね」
そしてハリードに向き直る。
「ただし、傷が深いのに変わりはないよ。今日まで保ったのは幸運中の幸運だ。しばらくは安静にするように」
術中術後の注意点などを聞かされるエレンの真剣過ぎる面持ちに、ハリードはまた笑いを堪えていた。いや、堪えられなかった。
「ははは、い、いてて、痛いって」
「自業自得っ!」


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