ハマール湖の畔は、砂漠地帯の真ん中に在るのだと思えないほど、気候が穏やかだ。
エレンはそれを左右に感じながらも駱駝を急がせていた。消耗させては仕方がないため、早足程度に留めているが。

街を離れるにつれ、モンスターが姿を現し始めた。
その度に駱駝を降りる手間だけがもどかしいが、それを惜しまぬのならば、このオアシスでなら難なく戦える。
夜は結界石で身を守る。モンスターが近寄れない結界を張り、また周囲の空間を僅かに捻じ曲げて、姿を隠すことができる道具だ。
エマから、夜の砂漠では有毒の蛇や蠍が活発になり、非常に危険なのだと教わっていた。
急ぐことと、体力の温存とを秤にかけ、最も効率の良い日程を頭の中で組み上げてあるのだ。
淡々と傷の手当てをし、焚き火の炎が揺れるのを眺める。

情報収集の効率、武術のこと、心を鎮める呼吸法。
闇雲な行先へ向かうエレンを支えるのはすべて、ハリードからの教えだ。
こんなことに役立てるのは何だか皮肉で、悔しい。
唇を噛み締め、血が滲んだ。


2日目、とうとうハマール湖を離れ、砂地へ。
砂の上へ降りて戦うエレンの足下は不安定極まりない。
モンスターとはいえ砂漠地帯に生息するのだから、爬虫類だとか昆虫のような姿をした者が多かった。
当然それらの動作に淀みはなく、逆に日が昇るにつれ、人間にとっては過酷な環境となってゆく。

殺風景なようでも、砂の嵩が少なく、足場の良そうな場所も目に入る。
しかしそれを選んで進むようなら、ただでさえ“南”としか分からない目的地、もしも方角を見失えば…。

斧を振るうエレンの右腕が空を切り、モンスターどもの牙や爪は確実にエレンの肉体を捉えた。
軽鎧のプレートを破壊されて覗く肩口に、深い傷を負っていた。
暑さによる汗と、脂汗が混じり合って頬を伝う。
時折眩む眼が遠方に見るものは、目指す場所なのか、蜃気楼なのか──









ドラゴンの亡骸は煙の如く掻き消えていた。異空間より召喚されたモンスターだから、異空間へと消えたのだろうか。
その命を絶った曲刀だけが残され、横たわる。
ハリードはそれを取らず、おぼつかない足取りで、アル・アワド王の眠る石碑へ向かった。

曲刀カムシーン。
血に塗れたハリードの手に取られたそれは、埃を払ってみれば、全く朽ちた様子ではない。
無駄な装飾や彫刻を施さず、機能性に重きを置いた品なのだろう。
その磨かれた刀身にすら、紅い雫が落ちて、
焦がれ続けた宝刀を瞳に映しても、それは目的ではなかったのだと思えば、虚しさに囚われる。

髪と共に切られた結い紐が解けて落ちた。
頬と首筋に髪が掛かる違和感を、霞みかけた意識の中でやけに強く感じる。
拾い上げた紐で束ね、もう一度、カムシーンを目に映し…
「……っ」
眩暈に襲われ膝をついた。多量に失血したせいだろう。
敵の存在が無くなった広間で、張り詰めた気を切らし、鈍痛をはっきりと認識してしまう。腹を抱え込み、浅く息を吐く。


なぜ…、戦うのか…
戦って、生き延びて、逢いたいと願った存在があるからだ。


ほとんど這いつくばるようにして、ここまで携えて来た曲刀の側へ。
刃の欠けた部分からひびが走っていることに気づき、刀の腹で地面を打つと、金属音を立てて真二つに折れた。
「………」
カムシーンを握り直す。
立ち上がり、迷いを振り切れないままで、広間の出口を視界に入れた。






エレンは、神頼みのようなことを好まない。
ハリードもまた、右腕と曲刀だけを信じて生きてきた。






相変わらず、アンデッドどもはどこからか沸いて出て、生身の人間に吸い寄せられる。
カムシーンの威力でも補いきれないほど、ハリードの身のこなしは鈍っていた。
攻撃よりも回避に全てを注ぎ、眩暈に何度も倒れ込んだ。

曲刀を構えたアンデッドが現れた。カムシーンを欲した戦士だったのだろうか?ハリードと刃を交わす。
自分のなれの果てがこいつか、と、口の端に笑みが浮かぶ。
腕を斬らせた引き換えに、カムシーンで胸を深く裂いた。
「は…、」
意識がはっきりしないのか、はたまた出来事を記憶する能力が眠ってしまったか、自分がどうやって進んでいるかすら曖昧だ。
ドラゴンの牙が突き刺さった箇所はどれほどの傷なのだろう。即座に命に関わる臓器はやられていないようだ。
それとも、深手に精神を狂わされた肉体が、死の間際まで戦うつもりでいるのだろうか。
「…ぐ…っ」
ふらついて壁に身を打つと、鎧のプレートが幾つか剥がれ落ちる。
もはや鎧と呼べるかも分からない形状になっているが、これの重みすら負担になった。
外して投げ捨てた。
そのせいでモンスターの爪がまともに右肩を抉ったが、この時はもう既に、神経が痛みを伝達することをやめていた。

何度目かの眩暈に両手と両膝をつく。
この建物の出口は近い。
その向こうに何があるか、と、哲学的な方向にすら考え始めた。

待ち受ける扉の、朽ちて欠けた部分が放つ陽光。時刻は判らない。
視界も、思考も、総てが閉ざされる直前にあることを自覚しながら。
光を求めた。





今、どうしているだろう…最期にどうか、触れられたなら、笑いかけてくれたなら、

脳裏を掠める面影に縋ろうとして、
扉を体ごと押し開き、延ばした手が砂漠の砂を掴んだ。
唐突に咳き込んでその砂に撒き散らしたのは、血。
昔から見慣れていたその色が、浮き上がるようにくっきりと目に飛び込む。

愚かな男がカムシーンを抱いて眠るなど、身に余る光栄ではないか。

これでいい。
望みは果たされる。

最後に深く、息をついた。


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